山吹静吽
貴方の祖父の手の指は、左右合わせて何本あったろうか?
十、と答える人が多かろう。
当たり前だ、と思った貴方にこそ、今一度良く思い出してもらいたい。
本当にそうだったか?
私もずっと母方の祖父は当たり前に十本指だと思っていたのだから。
祖父はずっと種子島で鍛冶屋を営んでいた人だったが、私が生まれる数年前には、京都府にある私の生家近くに引っ越していた。幼い私が会いに行く度、散歩に連れ歩いてくれたり、抱き上げてくれたり、小遣いをくれたりする祖父の手は鉄を打つ仕事を長く続けてきた為か、他のどんな大人とも違って、岩のようにゴツゴツとした印象深いものだった。
否、印象深い筈だったのだ。
祖父の手が九本指だという事実に私が気付いたのは、何と高校卒業も間近になってからだった。それも特に変わった切っ掛けがあった訳ではない。
何かの用事で祖父の家を訪った日、庭の畑で取れた野菜を食わせてもらった時だ。野菜を山盛りにした皿を差し出す祖父の手から一指が欠けていることを、全く唐突に、初めて発見したのである。
私は何気ない風を装って野菜を食いながら、大いに混乱した。
いつから祖父の指は少なかったのだろう。怪我をしたのだろうか。だがいつだ。最近なら私が知らない筈はない。観察するに生まれつき少ない訳ではなさそうだ。欠けた指は中程から断ち切られたと見えて、断面の皮膚が薄く張り詰めており、皺だらけの祖父の手の中に、そこだけ濡れたような光沢がある。これはやはり後天的なもので古傷に違いない。ならば大分前から、多分私が生まれる前から祖父の指は少なかったのだ。
一度会っただけでも見逃さないだろう身体的特徴の筈が、恥ずかしながら、私の眼には二十年近く映らなかったことになる。
何となく指のことを尋ねないでいる内に、祖父は鬼籍に入った。あの九本指に想いを馳せる度、私は未だに怏々とする。
どうやら私は探偵には向いていないが、それにしても多少の不注意で見落とし続ける特徴だろうか。
あれほど何度も、繫いで散歩し、抱き上げられ、小遣いをくれた、印象深かった筈の、あの手が九本指であると気付かないとはどうしたことだったのか。
この話をする度に、誰もが祖父の指が欠けた理由をこそ知りたがった。
滅多に会わなかったならともかく、近所に住んでいたのなら見落とそうにも見落とすまい。余程君が上の空だったのだろう。それよりどうして君の祖父は指をなくしたのだ?
このように口を揃え、色々と推理してくれる。
何らかの事件や仕事での事故、或いはやくざ者との関わり。太平洋戦争に出征していたから戦闘で負傷したとも考えられた。
諸々の推理の甲斐もないことだが、後に母に尋ねてみれば、祖父の指が欠けた訳は呆気なく詳らかにされた。
しかし、ここではその際に判明した理由については省こう。
九本指を二十年近く見逃し続けるなどということが、どうして起こり得たのか、という謎こそが私にとっては肝要だから。
仮に探偵が容疑者の指が欠けていることを然したる理由もなく見落としており、それが事件解決に繫がる重大な情報だった、という筋書きの推理小説があったとして、説得力を感じる人は多くあるまい。
誠にもって事実は小説よりも奇なり。私は見落とし続けたのである。
しかし我が名誉の為に自己弁護させていただきたい。
似たようなことが、貴方にも、きっと誰にでもある筈なのだ。
この話を終える頃、初めは私の迂闊に呆れるばかりだったにも拘らず、決して少なくない人が打ち明けてくれるのだから。
言われてみれば自分にも似たようなことがあったのだ、と。
そして決まって、日常に潜む謎を発見した瞬間の驚きを語ってくれる。
どの謎にも共通しているのは、どうして見落とし続けたのか理解に苦しむほど異様でありながら、何かの弾みで気が付くまで、至近距離にいた当人の目にだけは映らなかったということである。
語られた謎そのものより、日常に埋没した途端、それが本当に無きものの如く見出されなくなることこそ不可思議ではないか。
人は、常々見えていると思っていることこそ見逃しがちなようだ。そしてそんな日常に埋没した謎を見つけてしまうと、人はそれを掘り返して確かめねば気が済まなくなり、後には掘り返され穴が開いた地面と同じく、少しだけ形を変えた日常が残る。
実は貴方の目にしてきた日常は、本当の姿と異なっているかもしれない。
だから日常の風景を見慣れていると思っている貴方にこそ、今一度良く思い出してもらいたい。
貴方の日常には埋没している謎がありはしないか?
隣家の門前の盛り塩らしき物がいつも真っ黒なのはなぜか?
叔父が肌身離さず無数の御守りを持ち歩く理由とは?
決まって夜の九時きっかり、近所の老婆が毎夜、道端の側溝に流している洗面器の中身は?
自宅の天井裏から聞こえる、引き摺るような音の正体は?
五歳の娘が庭に掘り続けていた大きな穴に埋めたのは何だったのか?
貴方の祖父の手の指は、左右合わせて何本あったろうか?
- 『腐れ縁』 最東対地
- 『九本指』 山吹静吽
- 『忘れられた犯人』 阿津川辰海
- 『ささやき』 木犀あこ
- 『普通と各停って、違うんですか』 山本巧次
- 『雨の日の探偵』 階 知彦
- 『神々の計らいか?』 吉田恭教
- 『虫』 結城充考
- 『監禁が多すぎる』 白井智之
- 『チョコレートを嫌いになる方法』 辻堂ゆめ
- 『銀河鉄道で行こう!』 豊田巧
- 『方向指示器』 小林泰三
- 『庭をまもるもの』 須賀しのぶ
- 『寅さんの足はなぜ光る』 柴田勝家
- 『脱走者の行方』 黒岩 勉
- 『日常の謎の作り方』 坂木 司
- 『味のないコーラ』 住野よる
- 『鍵のゆくえ』 瀬川コウ
- 『彼らはなぜモテるのだろうか……』 市川哲也
- 『やみのいろ』 中里友香
- 『インデックス化と見ない最終回』 十市 社
- 『文系人間が思うロボットの不思議』 沢村浩輔
- 『街道と犬ども』 石川博品
- 『沖縄のてーげーな日常』 友井 羊
- 『ジャンルという名の妖怪たち』 ゆずはらとしゆき
- 『カロリー表示は私を健康に導くのか』 秋川滝美
- 『終電を止める女』 芦沢 央
- 『女子クラスにおける日常の謎』 櫛木理宇
- 『IBSと遅刻癖』 岡崎琢磨
- 『シューズ&ジュース』 青崎有吾
- 『キャラが立つとは?』 東川篤哉
- 『「源氏物語」のサブカルな顔』 荻原規子
- 『そこにだけはないはずの』 似鳥 鶏
- 『『美少女』に関する一考察』 加賀美雅之
- 『食堂Kの謎』 葉真中顕
- 『寒い夏』 ほしおさなえ
- 『人喰い映画館』 浦賀和宏
- 『あやかしなこと』 平山夢明
- 『あなたの庭はどんな庭?』 日明 恩
- 『日常の謎がない謎』 小松エメル
- 『影の支配者』 小島達矢
- 『「五×二十」』 谷川 流
- 『グレープフルーツとお稲荷さん』 阿部智里
- 『ボールペンを買う女』 大山誠一郎
- 『日常の謎の謎』 辻真先
- 『『サイバー空間におけるデータ同定問題』あるいはネット犯罪量産時代』 一田和樹
- 『囲いの中の日常』 門前典之
- 『カレーライスを注文した男』 岸田るり子
- 『お前は誰だ?』 丸山天寿
- 『世界を見誤る私たち』 穂高 明
- 『名探偵は日常の謎に敵うのかしら?』 相沢沙呼
- 『で、あなた何ができるの?はあ、皇帝だったらたぶん…』 秋梨惟喬
- 『すっぽんぽんでいこう!』 桜木紫乃
- 『右腕の長い男』 麻見和史
- 『坂道の上の海』 七河迦南
- 『彼女は地下鉄でノリノリだった、という話。』 柴村仁
- 『その日常で大丈夫か?』 汀こるもの
- 『成功率百パーセントのダイエット』 小前亮
- 『謎の赤ん坊』 蒲原二郎
- 『一般人の愚痴と疑問』 沼田まほかる
- 『寄る怪と逃げる怪』 高田侑
- 『福の神』 木下半太
- 『マッドサイエンティストへの恋文』 森深紅
- 『私の赤い文字』 大山尚利
- 『となりあわせの君とリセット』 詠坂雄二
- 『美人はなぜ美人なのか』 小川一水
- 『なぜモノがあるのか。』 鈴木光司
- 『この目で見たんだ』 北村薫
- 『運命の糸が赤いのは?』 山下貴光
- 『念力おばさん』 湊かなえ
- 『方向オンチはなぜ迷う?』 山本弘
- 『ゆがむ顔のカルマ』 真藤順丈
- 『子供だけが知っている』 宇佐美まこと
- 『人はなぜ、酒を飲むのか』 薬丸岳