迷路の中の奥付
『迷路館の殺人』綾辻行人著
23字18行の2段組。
ページ数は多ければ多いほどよく、装幀は著者だけの世界観による独自性とこれに比例する暗黒性を帯び、波長の合った読者を一目で虜にしてやまぬもの。
それが彼にとって、この世で最も美しい本の書式だった。美しい、という表現が過剰であるのなら、掛けがえのない、と言い換えてもいい。
なにしろ今の彼は、その本に出逢わなければ存在しなかったのだから。
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多くの出逢いがそうであったように、彼もまた、「初めて出逢った講談社ノベルス」が「初めて衝撃を受けた講談社ノベルス」という幸福に恵まれた。
学生時代。自分が何者かも分からない頃、己の技量も計れず、目に付くすべてに噛みつき、餓えていた時分。
生意気にも小説の限界を感じ、嘆いていた彼は新しい世界に出会った。
孤島にうち捨てられた十角形の慰霊碑。
山間深くに佇む水車(みずぐるま)の回廊。
懐かしむに、それらとの出会いは発端ではあったが、まだ希有(けう)な作者との出会いにすぎなかった。
彼が衝撃を受けたのはその直後。
アステリオスの神話の末(すえ)。怪奇露悪の極まったラビュリントスの一夜に、頑なだった魂は打ち砕かれた。
そこには世界があった。冷徹な知性、理論で“小説”を一つの箱に押し込めながらも、なお溢れ出る熱があった。
小説に限界などなく、創作者の美学・奇想は留まるところを知らなかった。
本の中に本を作る。物語の為に世界を用意する。テキストだけではない。本そのものの在り方にさえ、この作者は執着したのだと。
当時、多くの先達は嘆いただろう。
その型破りは反則にすぎない。固定観念の破壊を謳(うた)うだけの、破滅を呼ぶ禁じ手だと。しかし、彼はその在り方に焦がれた。この本に携わったものたちの貪欲さに憧れた。
以降、彼はその貪欲さに染まるように、多くの“型破り”に埋没していった。
無論、本には様々な種類、形式がある。
彼とて消費者のひとり。すべての本に執念を求めてはいない。ただ特別な本があるという事を、ここに記しておきたい。
講談社ノベルスという容れ物が、彼にとっては譲れない拘(こだわ)りだった。
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つまるところ、究極の小説とは人格の転写である。
“ただ書いた”だけの手慰みなど許されない。
そこには著者の執念が込められていなければならぬ。決して偽らぬ、著者の理想の結晶でなければならぬ。
たとえ世のすべてが物語を裏切ろうと、理想であるからこそ、著者だけはその物語を裏切れまい。
今でも、深い藍色のフレームに閉じこめられた「迷路」に触れるたび、彼は思うのだ。
本に携わるすべてのものよ。
今でも、世に送り出すもの、世に残すものに誇りを持っているか。所詮は娯楽、消費の一端と己を戒めながらも、読み解くものたちの時間を奪うに足るものを残したのだと、胸を張る事ができるのか――と。
出版は流動していくが、創作者の執念は変わらない。人間はそこまで自由にはできていない。エゴは肥大化する一方だ。作者の欲望も、読み手の欲望も、際限なくエスカレートしていくだろう。
それを受け止めるに足る容れ物であるかぎり、彼の愛もまた、変わらない。
彼が何者であるかなど語るまでもない。
これはノベルスという形式を愛し、愛した、親愛なる貴方の物語だ。