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『終電を止める女』芦沢 央|日常の謎|webメフィスト
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日常の謎

終電を止める女

芦沢 央(あしざわ よう)

 生まれてきてよかった、と思うことが度々ある。

 いいこと続きだからではない。私はお酒を焼酎なら三杯、ワインなら二杯飲むと大抵そうした心持ちになるのだ。

 好物のサーモンを肴に少量のお酒をあおっているだけで世界が輝いて感じられ、一緒にいる人がいい人に見え、生まれてきてよかったと心から思えるのだから、我ながら安上がりで幸せな体質である。

 だが、決してお酒に強いわけでもないので失敗談も尽きない。ほろ酔いで電車に乗ってふと気づいたら成田空港や東武動物公園にいた、というのはまだ潜在願望をうかがわせるかわいげのある失敗だが、財布を落とすこと三回、鍵を失なくすこと五回、鞄ごと紛失すること二回、となると少々笑えない(人には笑われるが)。

 また、これは結婚してからの話なのだが、酔って帰宅して玄関で眠ってしまったこともある。それも、どうやら風呂と玄関を間違えたらしく半裸で玄関に向かって倒れていたそうだ。翌朝起きてきた家人が恐る恐る私に触れると冷えきっていたので(まだ肌寒い時節だった)、思わず「し、死んでる……!」とお約束のセリフを口にしてしまったという。

 玄関のドアまで辿り着けなくてよかった。これが外に出て行き倒れた姿を隣人に発見されていたら本当に死体になってしまいたくなっただろう。

 そうしたわけで、お酒は大好きなものの家人から「くれぐれも控えよ」と申し渡されているのだが、今回紹介したいのは失敗談ではない。大学生の頃、酔って乗った終電で見知らぬ駅に辿り着き、「はて、ここは……」とホームで立ち尽くしていた私が目撃した謎の女についてだ。

 私がその女に気づいたのは、『ドアを閉めます! 発車します!』とアナウンスが繰り返されるも一向にドアが閉まらず発車もしないのを訝しく思って電車を振り返ったからだった。

 原因はすぐに見つかった。一組の男女がドアの間近で揉み合っていたのである。すわ痴漢かと身構えたが、どうもそうではないらしい。

「いいから帰るぞ!」

「いや! 帰らない!」

 二人のセリフが聞こえてくるや、脳みそが幸せな状態になっていた私は、いいねえラブラブだねえ、とニヤついた。

 男の方は帰りたがっているようだが、翌朝に予定があったり宿泊費が足りなかったりするのだろうか――そう憶測を巡らせていると、男が女を車内に引きずり込み始めた。女は膝立ちになってドアにしがみつく。突然激しさを増した展開に、乗客たちは何事かと身を乗り出し、駅員の『危ないですから乗るか降りるかしてください!』という声にも切迫感が混じり出した。

 乗客や駅員のように直接の被害があるわけではない、むしろ完全に無関係な私も、行く末を見届けねば立ち去れない気がしてくる。

 と、ついに女がホームへと転がり出た。

「早く乗れよ!」

 男もそう叫ぶだけで追おうとはしない。その隙を突いたようにドアが閉まる。男と女はガラス越しに顔を見合わせた。

 電車はゆっくりと滑り出し、ホームには靴の脱げた女と野次馬根性丸出しの私だけが残された。

 電車がホームから離れても女は座り込んだまま動こうとしない。大丈夫だろうか――私が足を踏み出した途端、女は勢いよく立ち上がった。そのまま何事もなかったかのように靴を履き直し、スタスタと歩き始める。鞄から携帯を取り出して慣れた仕草で耳に当てた。

「もしもしユウくん? もうほんと恥ずかしかったよー。超注目の的だし。こんなことしてあげるの私くらいだからね?」

 それまでの感情的なわめき声とは別人のように、間延びした笑いを含んでいる。啞然と立ち尽くした私を置いて、女は改札へ続く階段に消えた。

 ――今のは何だったのだろう。

 電話の相手はたった今電車に乗っていった彼なのか? それとも全くの別人? 「ユウくん」ということは男性なのだろうが、「こんなことしてあげるの」というセリフは一体――。

 そこで私はハッと息を吞んだ。彼女はこの状況について何の説明もしていない。にもかかわらず、相手には状況が伝わっているようではなかったか。

 先ほどの彼が「ユウくん」なのだとしたら状況を把握していても不思議はないが、だとすると口調の変化が腑に落ちない。まさか先ほどのやり取りは二人で示し合わせた演技だったとでもいうのだろうか。だが、何のために?

 あるいは、「ユウくん」が先ほどの男とは別人だとすればどうだろう。その場合、彼はこの状況を目撃できる場所にいたか、そうでなければ予めこうなることを知っていたということになる。それは何を意味するのか――?

 わからない。想像することはできるが――たとえば、あの男女は人間観察を趣味としていて、痴話喧嘩を目の当たりにした人々の反応を楽しんでいたのだとか、「ユウくん」はどうしても終電に乗りたいけれど間に合わなさそうだから彼女に電車を引き留めておくように頼んだとか――それが正解かどうかを知る術はない。

 ミステリのように「探偵」が解答を示してくれるわけでも、「犯人」が自白してくれるわけでもないからだ。

 一人、あるいは二人の男と女の関係はどんなもので、何が彼女にああした言動を取らせたのか――それは謎のままだ。「女は謎」で片づけてしまえば終わりなのだが、私は自身も女だからかそう割り切ることができない。いや、本当のところ私はそうした「女の謎」に魅せられているのだ。強さと弱さ、賢さと愚かしさがないまぜになった性――そしてその奥にある尽きない欲望に。そうした人間の業のようなものと向き合うために、私は小説を書いているのかもしれない。

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