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『私の赤い文字』大山尚利|日常の謎|webメフィスト
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日常の謎

私の赤い文字

大山尚利(おおやまなおとし)

 二十一歳の夏から日記をつけている。

 コクヨのノートにパイロットの赤ペンで十四年。はじめは自由帳として買ったノートだった。一ヵ月ほど脈絡のない文や落書きをしたあと、どういうわけかその日のことを書くようになり、一週間後からようやく日付を記入しはじめている。気がついたら日記になっていたというはじまりにもかかわらず、こうして十四年も続き、いまでは日記をつけられなくなることが死ぬということなのではないかと思っているほどだ。

 そして字、そのものにも。

 たとえば「西」だ。四画目と五画目、上からおりてきてスライス、フックのところが、あるときから「価」のように、そのまま下まで垂直におりてきてしまうようになったのだ。西という漢字を習って以来ずっと、途中で喧嘩してべつべつの道を歩むことになった兄弟のようにはなればなれになっていたのに、まるで兄弟のかけがえのなさに気づき、仲直りしたとでもいうような平行線になったのだ。

 流れにまかせて書いているので、ペン先を一時停止させることができず、そのまま平行線の西を何度も書いてしまう。これは直さないといけないと思い、あるとき平行線の西にバッテンをし、正しい西をとなりに書き直すことにした。平行線の兄弟を仲間割れさせる。すると思いもよらないことが起こった。強い違和感が込みあげてきたのだ。「自分に嘘はつけない」という名言のようなものを何度か耳にしたことがあるが、このとき私は私に嘘をついたのだとわかった。平行線で書いてみる。こいつはどうだ、しっくりくるではないか。

 なぜなのかわからないまま、そうしてしばらく平行線の西を書いているうちに、またあるときからスライスしないものの四画目は勢いが衰えて囲いの中ほどでとまるようになり、五画目はフックするようになったのだ。

 この変化の原因はなんなのか?

 西だけではない。「買」もそうだ。囲いのなかの縦棒、横棒を書けなくなり、「口」と「只」を組み合わせた字になってしまったのだ。「足が生えたかわいいボルトくん」のような字が、これでは「愉快に歩いている人」をあらわす象形文字ではないか。

 以前はきちんと書けていたのに、なぜ書けなくなったのだろう?

 こういったことが頭にあったある日、たまたま手に取った本の、たまたま開いたページによって、私はとびきりの恐怖を味わうことになった。

 凶悪犯の字に共通する特徴。

 これは読まないほうがいいと察知してすぐに本を閉じた。知ってしまったら、よからぬ影響を受けるとわかった。だが時すでにおそし。具体的なことはなにもわからないが、とにかく凶悪犯の字には共通する特徴があると知っただけで充分だった。なおかつ悪いことに、具体的なことがわからないから疑念は出口を失い、与えられた恐怖を解消できない。だがもう一度ページを開く勇気もない。

 私の字にも凶悪犯の字の特徴とやらがあらわれているのではないだろうか? 「西」が平行線になったり、「買」のなかの棒が書けないのは、マシンガンを乱射するといったような凶悪なことをしでかす兆候なのではないだろうか? 私の字には、ほかにもさまざまな特徴が潜んでいるのではないか? 見る人が見れば、これは凶悪犯が書いた字だ、と判定するかもしれない。そもそも赤ペンで書いているのも、血に飢えていることのあらわれなのではないか?

 過去の日記を読み返しては字の変化を見つけておびえるようになった。しかしなにがわかるわけでもなく、マシンガンをあげると声をかけられても、きっぱりと断る強い意志を持とうと心がけることで恐怖を薄らげるしかなかった。

 このことにより、字への関心が強くなった。自分の字が変化するというのは不思議だ。他人の字にも関心が増したように思う。研究をしているわけではなく、字からその人の内面がわかるとまではいかないから、凶悪なことをしでかす兆候をさがすといった疑念の目で見ずにすむのもいい。ポケットのなかにしまっていた、とっておきのおもちゃを見せてもらっているようなうれしさを感じるだけだ。ああ、この人はこういうおもちゃを持っているのか、という具合である。字を書いている姿を見ているだけで気持ちがやわらかくなる。

 私の字が邪悪な兆候に満ちていようとも、めげずにこれからも日記をつけ続けるのはなぜか? 習慣だから? いやなことがあっても、日記につけることでたんなるいやなことではなくなるから?

 以下が答えである。

 廃墟に魅せられる人々がいる。打ち捨てられた工場や遊園地の写真集を、私もめくってみることがある。なぜ魅せられるのか? それはたぶん自分が幽霊になれるからだろう。幽霊は死なない。死なない者に未来はない。あるのは過去だけ。過去とは永遠だ。廃墟も日記も過去。だから日記は廃墟であり永遠だ。

 私に訪れる死が突然のものではなかったとしたら、枕元には何冊かの本があることだろう。人生で最後に読む本はなにか?ジョン・アーヴィングはディケンズの『我らが共通の友』らしい。私はまだ決めていない。だがどの本にしろ、最後の最後に読むのは自分の日記であることを、もう疑ってはいない。二十一歳の夏からの人生を永遠のものにし、私はきっと泣くだろう。

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