講談社BOOK倶楽部

『謎の赤ん坊』蒲原二郎|日常の謎|webメフィスト
webメフィスト
講談社ノベルス

日常の謎

一般人の愚痴と疑問

蒲原二郎(かんばらじろう)

 さすがに三十年も馬齢を重ねておりますと、人知を超えたとんでもないものを目にする機会があるものです。今回お話しするのはその中でも特に理解不能で奇天烈な事件についてです。

 あれは私が大学三年生の時のことでした。当時、私はお台場のフジテレビの近くで、夜勤のテレアポのバイトをしていました。そこは男だらけのじつにむさ苦しい職場で、昼間働いている女の子からは全員「ゴキブリ」などと呼ばれていました。かくいう私も当然ゴキブリの一員であるのは言うまでもありません。

 そんなコックローチ・デイズのある日、いつものように我々ゴキブリ軍団は夜勤を終えると、新橋に向かうおしゃれな電車「ゆりかもめ」に乗り込みました。

「いや〜、お疲れ」

「新橋で牛丼大盛り食べてこうぜ」

 むさい男たちがむさい会話を始めます。すると、ゆりかもめのドアが閉まる直前、我々が乗っている車両に女性が走って飛び込んで来ました。見れば若くてキレイな素敵女子です。もちろん男どもは全員すぐさまロックオン状態です。
(うほっ、これはまた上玉!)

 獣じみた男たちの目がギラリと光りました。すると、何かを感じたのでしょう。その素敵女子は我々を見るや、すさまじい勢いで前方車両に向けて歩き出しました。思えばなんとか間に合った電車に清潔感のかけらもない集団が乗っていたのです。女性としては当然の判断といえるでしょう。天地明察(?)です。

 しかし、若さとはいつの世でも無謀の代名詞。先輩が即座に目で、

「蒲原、声をかけてこい!」

 と私に命令してきました。

「アイ・アイ・サー!」

 大学時代は金髪で巨躯。いけいけどんどんだった私はすぐさま素敵女子を追いかけ始めました。

 素敵女子はよっぽど我々が嫌だったのでしょう。ご丁寧なことにゆりかもめの最後尾の車両から、先頭車両まで移動しやがりました。やっと追いつくと私はすかさず声をかけます。

「はじめまして。私はW大三年の蒲原と申します。唐突なお願いで大変恐縮なのですが、よろしければ今度、二人でお食事でもいかがでしょうか?」

 テレアポのバイトのせいで、言葉遣いだけはひどく丁寧な私です。

 もっともそんな私の紳士的な誘いに対し、素敵女子は黙り込んでひどく嫌そうな顔をしました。

(むっ、黙秘権の行使か、やるな。しかしここでへこたれては仏の蒲原と呼ばれた男がすたる)

 その後も私は必死に情に訴えかける説得を試みます。二人きりでの会食が嫌なら合同コンパの開催はいかがか? それも無理ならせめて連絡先だけでも教えていただけまいか、と。

 結果はやはり返事無しでした。美人なのに性格は不美人だったようです。

(ちくしょう、不幸になればいい!!)

 心の中で呪詛の言葉を吐きつつも、私はすごすごとその場から退散しました。

 そうしてゴキブリ軍団のもとへ帰る途中、前から二番目の車両を通った時のことでした。私はそこに乳母車に乗った赤ん坊と、そのお母さんらしき女性を発見しました。行きは女の子に夢中で気づきませんでしたが、その車両にはその親子だけしか乗っていませんでした。

(やれやれ、俺の恥ずかしい姿、見られてなけりゃいいけど)

 足早に乳母車の横を通り過ぎようとしたその時です。「お母さん、今日はかっこうのピクニック日和だねぇ」

 足下からオッサンのような声が聞こえてきました。

(うん!?)

 驚いて立ち止まると、お母さんらしき女性がいかにもやる気なさそうに窓の外の景色を見ながら、「そーねー」などと返事をしています。いったいどういうことでしょう? 慌てて下に目を落とすと、なんと生後七カ月くらいの赤ん坊が口を開いて「ねー、お母さーん」などとしゃべっているじゃありませんか。しかもオッサンみたいな声で。

(うわっ、ひゃあああ!!)

 私は見てはいけないものを見たような気持ちになり、急いでゴキブリ軍団のもとに戻りました。

「せっ、先輩、あの、前の車両にしゃべる赤ん坊がいました! しかもオッサンみたいな声でしゃべってるんです!!」

 ところがみんな疑いの眼で、

「おいおい、蒲原、寝ぼけてんのか?」

「腹話術とかじゃねーの?」

 などと、信じてくれようとしません。

「本当です、本当なんですよぅ!」

やがて一人の先輩が、

「やれやれ、そんなに言うんだったらちょっと見てくるか」

 と言ってようやく重い腰を上げてくれました。しばらくすると予想どおりその先輩が目を丸くして帰って来ます。

「ほ、ほんとにしゃべってる〜!!」

 その後、母子は竹芝で降りましたが、我々ゴキブリ軍団の間では、あの赤ん坊はいったい何だったのかという議論がずっと続けられました。小人のオッサン説、オッサンの生まれ変わり説など、いろいろな意見が出ましたが、結局結論は出ませんでした。そういうわけで、この事件はいまだに私の中で答えの出ない謎としてくすぶり続けています。いつまでたってもすっきりしません。まったく、しゃべる赤ん坊にも困ったものです。

 もっとも、よくしたものでこの話はスピリチュアル好きな女子にはとても受けがいいです。この話に女の子が食いついた時、私はいつもこう思います。どうやら日常に不思議な謎があった方が世の中楽しいし、ハッピーみたいだと。そんなこんなで私の人生は今日も万々歳です。

Backnumber

あとがきのあとがき 日常の謎
メフィスト賞とは?