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『やみのいろ』中里 友香|日常の謎|webメフィスト
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日常の謎

『やみのいろ』中里 友香

中里 友香

 エドガー・アラン・ポーの詩『大鴉』と、短編『告げ口心臓』を翻訳した。

 わたしが翻訳しおえたのは二年程前になる。しかし、さまざまな訳者の翻訳アンソロジー本として出版される予定なので、お披露目はかなり先。当初の予定が延長され、待ちに待った校正を四月に済ませたところで、今年九月発刊予定が、さらに来年の十月までお預けとなった。

 そんなわけで、ポーの詩と短編に、断続的とはいえ足かけ四年、向きあっている。通常の一読者としてならば、良くも悪くも、こうも長きにわたって、一作品に真摯にあたる機会をまず得まい。

 英語で咀嚼し、混沌とした反芻を経て、日本語で吐きもどす。葉音をザワつかせ桑の葉を咀嚼し、細い絹糸を紡ぎだしていくお蚕のような脳内作業であった。

『告げ口心臓』では、僕が怨恨や金銭目的でなくて、一方的に生理的嫌悪感をつのらせたあげくに、同居人の老人を殺害する。僕は神経が高ぶっていて、こと聴覚は鋭く冴え、御老人の鼓動まで聞こえる始末。首尾よく殺害したのちも、老人の鼓動はしばし鳴りやまぬのであった。浴槽で遺体を切り刻み、床下に隠しおおしたところで警官がやってくる。すると床下の死体から、なんと鼓動が聞こえだす。その鼓動こそがタイトルの「告げ口心臓」──ついに僕は金切り声で老人殺害を自供する。

 罪の意識に囚われていると、殺したはずの御老人の鼓動が脈打って響くのか。そんな教訓かとも思えるが、実際、バラした死体の鼓動が高鳴るはずもない。

 では僕はなにを聞き誤った?

 老人を手にかけるとき、隣人を起こさないか危ぶまれる程、うるさく鳴り続け、殺害後もしばしおとなしくならなかった。警察がやってきて、ぬかりなく振る舞っているつもりでいたが……再び高鳴りだした。そう。自分自身の鼓動だろう。自分の心音を、殺害したての老人の鼓動に聞きまがうほど平常心を喪失していた。

『告げ口心臓』は全文通じて平易な口語体で、いっぽう『大鴉』は詩なので、やや難解だった。書かれたのは一八四十年代。日本では江戸時代だから、当時の国文よりは超わかりやすい。出だしは平易な英文で、お、これはちょろい──?

 夜更けに悄然と打ちひしがれて、物思いに沈む主人公。古惚けた伝承の、あまたの意味深な怪異譚を漁りつつ──うつらうつらと、まどろみかけていたところ……さも物優しきノックのように、寝室の扉を叩く音がする。

 深夜の来訪者が入室をせがんでいる。

 この寝室に舞いこんでくるのが「大鴉」。冷厳な面構えをして、風格を備えている漆黒の鳥に、つい僕は話しかける。

「──むくつけき凄味のある古来の大鴉よ、夜の食国の岸辺より彷徨いきたる──夜の冥府の岸辺にて、そなたの栄えある名はなんであったか、うかがおう」

 大鴉に話しかける主人公の口上が突如、鹿爪らしい文語調となる。

 大鴉は「金輪際」とだけ口にする。

 この主人公は、愛する女性レノアに先立たれた哀れな身空である。

「しばし一服──おのれのレノアの記憶からしばしの一服、苦痛を溶かす恵みの魔薬を!」

 大鴉に向かって訴えかける。

「鳥か魔物か、まさに預言者よ! 願わくば教えてくれたまえ──彼の地には万能薬と名高きギリアドの膏薬がありや?」

 だとか、

「──哀しみを負うたこの魂に告げてくれ、遙か彼方エデンの園では、天使が授けた名こそはレノア、聖なる乙女を必ずやこの手にしかと繫ぎとめられうるや」等々。

 大鴉は「否、金輪際」と無惨にも否定する。

 主人公の問いかけは、読書に耽って学のある若者らしき設定のわりには、一見、随分と能がない。ポーは当初、片言を話す鳥としてオウムを想定していた。より陰鬱な不気味さを増すため、大鴉に変えたという。ようはこの問答は、的確な間合いで同じ相槌をうつ鳥に自己投影した、自問自答と大差がないのだ。僕も作中で、大鴉がオウムのように一ツ覚えで「金輪際」としか答えないと認識している。

 わたしが主人公であったならば「遙か彼方のエデンの園でも、私の夢は破れるか。この哀れな身空が再びレノアの手を繫ぎとめようとするは虚しい幻想か」と問う。そこで「金輪際」そんな苦い憂き目に遭いはしないと、悲観的な発想を大鴉に打ち砕いてもらう。だからといって詩の根底に漂う陰鬱な情感は失われない。なぜなら現状、僕の肉体は遥か彼方の楽園に遠く届かない。大鴉が嘴でついばんだ、おのれの孤独が癒される術もない。

 なのに実際の主人公は、大鴉に再三、未練がましく問いかけて、その都度、夢見がちな幻想を砕かれる。毎度、懲りずに断罪される。愛するレノアと天上で結ばれる資格が自分にないと、内心で知っているのである。主人公の胸底には圧倒的な罪悪感が横たわっているのだ。

 ──なぜ?

 僕こそがレノアを死に追いやった。あまつさえ殺害したからではないか。

 And his eyes have all the seeming of a demon's that is dreaming,

 ここでのhisは大鴉。ざっと読めば「奴(大鴉)の目には夢見る悪魔の風貌が」と訳しかねない。大鴉は、しかし僕と真ッ向から見つめあっている。大鴉の両目が宿している悪魔の風貌とは、目に映る僕の鏡像ではないのか?

 言明されてはいない。訳者の深読みで翻訳を一色に塗りつぶしてはならない。その一方で、かかる深読みがかなう糊しろを翻訳で殺ぎとってもいけない。

《其奴の眼には夢うつつたる悪魔の現身が厳然と映っている。》

 この悪魔の現し身こそが、自分自身の闇の投影──であればこそ、最後、主人公は魂の奈落に落ちて救われないのだ。

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