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『世界を見誤る私たち』穂高 明|日常の謎|webメフィスト
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日常の謎

世界を見誤る私たち

穂高 明(ほだかあきら)

 西の空に沈んでいく太陽、東の空から昇ってくる満月。どちらも地平線近くにある時は、とても大きく見えるが、空高い位置にある時は、さほど大きく感じない。この現象には「天体錯視」という名が付いている。

 特に、地平線近くにある丸々とした月が大きく見える現象は「月の錯視」と呼ばれ、二千年以上も昔、アリストテレスの時代から研究されてきた。これには様々な説があるのだが、未だに決定的な結論は出ていない。

 幼い頃に読んだ子供向けの宇宙の本には「大気層での光の屈折」が挙げられていた。「確かに『太陽にほえろ!』の真っ赤な太陽はデコボコしていて大きい!」と思ったものだ。しかし、大人になってから「地平線付近では周縁は歪みこそするが、大きさ自体は変わらない」という主張を知り、とてもがっかりした。

 どうやら「月の錯視」は天文学のテーマではなく、心理学のテーマだと捉えるのが今日では主流のようである。要するに錯覚の一種だということだ。

 以前、友人らと飲んでいて、この「月の錯視」が話題に上ったことがあった。すると、口から出てくる単語でその人の専攻がわかり、とても面白かった。「ポンゾ錯視」や「対比説」「非ユークリッド空間」などと口にするのは決まって心理学系で、「光の屈折」(これが『太陽にほえろ!』)や「天空の形状」「網膜像」「眼筋の緊張」などと力説するのは、科学・医学系出身の人間であった。

 皆それぞれ一生懸命に学問の道を突き進んでいる真面目な研究者ばかりなので、議論はどんどん白熱していく。学問の道を踏み外し、小説など書いている私は、おかげさまで喧嘩に加わることなく、好きなだけ飲み食いできた。

 結局、心理学系と科学・医学系の双方を納得させたキーワードは「脳」であった。錯視は目ではなく脳で起こる。よって「月の錯視」は、人間の脳内における情報変換の結果である、というのが理由だ。

 さすが、泣く子も黙る「脳」である。もし人間の体と心に関することで、文系と理系が口喧嘩を始めた時には、ひと言「脳」と言えば丸く収まるようだ。

 例えば、リンゴが近くにある場合と、遠くにある場合を考えてみる。遠くにある方がリンゴは小さく見えるが、私たち人間はリンゴ自体の大きさは変わらないことをきちんと認識している。これを「知覚の恒常性」という。知識や経験など、対象についての情報が多ければ多いほど、知覚の恒常性は強く働くらしい。

 空高くにある月と、地平線付近にある月は、どちらも人間の網膜上で同じ大きさの像を結ぶことが実験で確認されている。しかし、月までの見かけの距離によって、脳内で地平線付近の月の方を相対的に大きいと捉える、という説が今のところ有力なのだそうだ(ただし、反証も多く挙げられている)。

 よく知っているはずだと思い込んでいるものほど、実は誤解しやすい、ということだろうか。

 その席では「ふーん、なるほど」と、呑気に酒を飲んでいただけだったのだが、思いがけないことで、それを痛感する羽目になった。

 私は仙台市の中心部で生まれ、その後何度か引っ越しを繰り返し、進学で上京するまで仙台市東部の街で暮らしていた。区の自慢は、何と言っても市内唯一の海水浴場があるということ。家の近くの停留所から下りの市営バスに乗ると、その終点が海水浴場だった。

 バスは田んぼに囲まれた道をしばらく進み、やがてアーチ型の古い石橋を渡って停車する。バスを降りた後、潮の匂いを感じながら防潮林の中へ入り、松の木の間を「まだか、まだか」と、小走りで進む。砂に足を取られるので、逸る気持ちとは裏腹にうまく前へ進めない。最後に堤防の階段を駆け上がると、ようやく目の前に海が見える。

 ところが、あの震災の後に帰省すると、信じられないような光景が一面に広がっていた。

 田んぼも、住宅も、バス停も、松林も、確かにそこにあったはずのものが、ない。奇跡と言うべきなのか、アーチ型の古い石橋だけが、ぽつんと残っていた。逆にそれがとても心苦しかった。

 今回一番驚いたのは、道路と海岸はこんなに近かったのか、ということだった。

 今までは、いろいろな建物や防潮林があったので、遠く感じていただけだったのだ。バスを降りてから海岸に辿り着くまでしばらく時間が掛かる、だから遠い、という思い込み。

 かつて「まだか、まだか」と、やきもきしながら駆けたはずの道は、呆気ないほど短い距離だった。

 人間は眼球とは異なる、もうひとつの「目」で世界を捉えている。視界に映るのは、いわばフィルターを通した世界に過ぎない。そうとは気付かぬまま、私たちは世界を見誤りながら生きている。

 誰かが「安全だ」と主張したから「安全な感じ」が、するだけ。もし「危険だ」という声が高まってくれば、今度は「危険な感じ」が、するだけ。その存在自体は変わらないはずなのに。

 外界の情報に絶えず惑わされながら、捉え方が変わる、そんな危うい現実。錯覚してしまう人間。それを意識するか、しないか。

 もちろん「何だか今夜の満月は、いつもより大きくて、とてもきれいだなあ」と、愛でる気持ちは大切にしたい。それを失ってしまったとしたら小説は書けないし、小説にできることはそういうことだと思っている。

 自分の中に主観と客観という、二種類の物差しを常に持ち合わせること。大変難しいことではあるが、その両方が必要とされているのは、まさしく今この時なのかもしれない。

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