講談社BOOK倶楽部

『鍵のゆくえ』瀬川 コウ|日常の謎|webメフィスト
webメフィスト
講談社ノベルス

日常の謎

『鍵のゆくえ』瀬川 コウ

瀬川 コウ

「財布は三年で買い替えるものだよ」
 僕が財布を四年間使っていることを聞くと、友人のNがそう言った。なぜなのか尋ねると、「金運」らしい。調べてみると、財布は、千日間は金運アップの効果があるが、それを過ぎるとご利益がなくなるという。
 僕は運気の類をまるで信じない。「財布は三年で買い替えた方が良い」と言われると、「ずっと同じ財布を使いながらお金を貯めてやる!」と発奮すらする。
 そんな天邪鬼な僕は、先日、原付の鍵をなくした。
 朝、大学に出かけようとしたところ、靴箱の上に置いてあるはずの原付の鍵がなかった。一瞬焦るが、すぐにはっとして、靴を脱ぎ捨て、昨日穿いていたチノパンのポケットをあさる。いつも持ち歩いてるカードケースを見つけた。安堵する。「僕は昨日、ポケットに入れたものを出さないまま寝たんだ」、そう思ったのだ。原付の鍵もあるはずだった。しかし、探しても見つからない。ジャケットのポケットにもなかった。
 まずかった。
 僕の通うキャンパスは、青葉〝山〟にある。歩きで登校するのは疲れるし、授業にも間に合わない。なにより問題なのは、熊が出ることだ(年に三回ほど)。僕は「金太郎」を読み込んでいるので熊と素手で渡り合うことはできるかもしれないが、そうしたら相撲協会が僕を放っておくはずもなく、相撲部屋に入れられ、厳しい練習を毎日こなすことになり、大学に行けなくなって退学になってしまうのは目に見えている(たぶん)。逃げるにしても、熊は時速五十キロで走る。短距離走は得意なので何とかなるかもしれないが、逃げきれたらウサイン・ボルトに勝ったことになり、僕はオリンピック選手に選ばれ、厳しい練習を毎日こなすことになり、大学に行けなくなって退学になってしまうのは言うまでもない(おそらく)。
 だから僕は原付で登校したかった。
 しかし、壮大な前ふりも虚しく、しばらく探しても原付の鍵は見つからない。代わりにずっと探していた、はさみ、レジュメ、メガネなどが見つかった。「必要なものを探しているときほど、それそのものは出てこない」は、マーフィーの法則入りすべきだと思う。
 仕方がないので、僕は歩いて登校することにした。
 このまま原付の鍵が見つからないと大変だ。毎日歩きで登校はいいとしても、編集との打ち合わせ場所に行くには、原付が必須だ。次の打ち合わせは一週間後だ。最悪、鍵を作るという手はあるが、友人が鍵を作ったとき、三千円かかったと言っていた。突然の三千円は痛い出費だ。ここでふと、財布の話を思い出した。僕が使っている財布が四年目だからだろうか。いや、そんな馬鹿な。なんとしても、打ち合わせの日までに、原付の鍵を見つけてやろう。
 坂を登りつつ、原付の鍵がどこにいったのかを考える。気分は『ふたりの距離の概算』(角川書店)での折木奉太郎だ。
 原付が自宅駐輪場にあることから、紛失したのは、昨日学校から帰ってきてから朝までの間。昨日、帰宅してから今までのことを思い出す。自宅のベッドで原稿を書き、コンビニで晩御飯を買い、机で食べながら本を読んでいた。読み終わり、シャワーを浴び歯を磨いてコンタクトをはずして寝た。朝は、原稿を書いてゴミをまとめ、捨てた。今、登山中。
 家だろう。よく探せばあるはずだ。
 しかし、僕の推理も虚しく、家では見つからなかった。幸い熊に出会わなかった僕は、学校が終わってすぐに帰宅し、自宅のあちこちを探した。トイレの裏、電子レンジの下、ベッドの奥。だんだんと汚れが気になってきて、部屋を徹底的に掃除したが、ピカピカになるばかりで、結局、見つからなかった。
 家にはないとなると、コンビニだ。
 就業中の知らないコンビニ店員に声をかけるのは気が引ける。しかし、僕は毎日コンビニに通ってMONSTERを買っているために、店員に知り合いがいた。連絡先も知っているし、裏で「モンスターハンター」と呼ばれていることだって知っている。鍵の落とし物がないかどうか、メッセージで尋ねた。しかし、残念ながらないようだった。
 家にもない。コンビニにもない。
 そうなると、残る選択肢は一つ。朝、ゴミをまとめた際に一緒に捨てた、という可能性だ。そうと確信した僕は、三千円の出費を覚悟し、近くのバイク屋に電話して、鍵が作れるか尋ねた。スペアがない場合、原付の鍵を差し込む部分を外して取り替えるしか方法はないという。鍵屋で一万円でやってくれるそうだ。てっきり三千円だと思っていた僕は、面食らった。
 一万円。一万円あれば、ダブルソフトを四十九個購入でき、白いお皿が五枚も貰える(家の近くのスーパーでは、ヤマザキ春のパンまつりはダブルソフトが一番効率が良い)。
 もう一度部屋を探すが、見つからなかった。大きな出費だが、仕方がない。これは、僕の不注意が招いたことだ。諦めて、電話をかける。鍵のレスキューにかけていたらしく、近くの鍵屋を探してくれるようだった。部屋で折り返しの電話を待っている間、たまたま、ハンガーラックのキャスターをぼうっと眺めていた。キャスターの隙間に、何か黒いものが挟まっていた。本当にギリギリの、奇跡とも言えるタイミングで、僕は原付の鍵を見つけた。
 そういうわけで、打ち合わせの日までに、何とか原付の鍵を見つけることができ、一万円は必要なかった。運気などというものはやはりあてにならない。当日、原付に乗ると、タイヤが割れてパンクしていた。タイヤ交換は一万円だった。僕は財布を買い替えた。

Backnumber

あとがきのあとがき 日常の謎
メフィスト賞とは?