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『で、あなた何ができるの?はあ、皇帝だったらたぶん…』秋梨惟喬|日常の謎|webメフィスト
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日常の謎

で、あなた何ができるの?はあ、皇帝だったらたぶん…

秋梨惟喬(あきなしこれたか)

 日常の謎だそうである。しかも中国ネタがいいという依頼である。実に困ったものである。だいたい私は日常の謎というのが苦手なのだ。どちらかというと派手で大げさな、バカミスと呼ばれるような世界が性に合っているのである。

 しかも中国ネタだという。そもそも中国ネタで日常の謎というのはいかがなものか。何といっても中華世界には、“中国四千年”という無敵の武器があるのだ。“金色の偽ガンダム”ああ、あるかもね。“ダンボール入り肉饅”不思議じゃない。“山を緑に塗っちゃった”やっぱりねえ。

 といった現代物から、歴史物なら、“文化大革命”まあそんなものでしょう。“焚書坑儒”どこかおかしいですかねえ。“纏足、宦官”疑問に思ったことないな。

 だって“中国四千年”でしょ―これで話はすんでしまうのである。

 とはいっても依頼があった以上、何かでっち上げなくてはならない。そこで思いついた。一つだけ、中学生の頃からの、極めつけの謎がある。今回はそれでご機嫌を伺おうという趣向である。

 その謎とは、中国の小説に出てくるリーダーはなぜあれほど駄目人間なのか、というものである。皆さんはお気づきではないだろうか。『三国志演義』の劉備、『水滸伝』の宋江、『封神演義』の武王、みんな口先だけの駄目人間である。強くないし、頭は悪いし、特技もない。では人格者かというと真逆。いい加減で自己中心的で短気で、そのくせプライドだけは異常に高い。全員が同じである。『西遊記』の三蔵法師も、日本では聖人君子のイメージがあるが、原作をちゃんと読んでみると、結構自分勝手で強情で、同じタイプである。

 なぜリーダーがこんな性格なのだろう。どうせ小説なのだから、もっと恰好よくてもいいではないか。

 いや、実はこれは小説だけの話ではないのだ。劉邦や李世民、趙匡胤は正史においても、同じような性格だったように描かれているのである。正史に描かれているのだったら実際にそうだったんだから仕方がないだろう、という人もいるかもしれないが、中国の正史とは、正しい歴史、あるべき歴史の姿を描いているのであって、決して真実の記録ではない。作者・編纂者が正しいと考える歴史が正史である。

 つまり、小説の作者も、正史の編纂者も、リーダーをわざわざこういう性格に描いているのである。

“わざわざ”という点について語るには、陳忱の『水滸後伝』がわかりやすい。これは『水滸伝』の続編で、梁山泊の生き残りが再び集結、海外に出て暹羅国を得て大団円、というストーリーである。ここでのリーダーが“混江竜”李俊、架空の人物である。李俊は『水滸伝』では荒くれの水軍頭領として登場しており、『後伝』でも最初は侠客・豪傑キャラである。ところがラスト近くで暹羅国王に即位すると、弱気で臆おく病びょうで、敵が攻めてくると自害しようとして家来に止められるという、劉備・宋江タイプになってしまう。陳忱はリーダーになった段階で“わざわざ”駄目人間に変えているのである。

 この件について、それなりに理屈をつけようという試みはなされてはいる。世に数多く出回っている『三国志』の解説本では、劉備は大人の風格があるとか、人徳があるとか、人を惹きつける魅力があるのだ、としている。しかし実際にオリジナルを読めば、どう贔屓目に見てもそうは思えない。

 曹操・劉備・孫権をそれぞれ織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に擬なぞらえることも多い。常識に囚われない合理主義者で、また優れた文化人でもあった曹操と信長、地域の勢力をまとめて、手堅く勢力を保った孫権と家康はまあ納得だが、陽気で知恵者で決断力・行動力に優れた秀吉と劉備は正反対である。

 一方、別の視点から、これは儒教倫理を笑い物にしているのだ、劉備や宋江をああいう風に描くことで庶民は溜飲を下げているのだ、という説もある。しかし実際には庶民たちは決して劉備を馬鹿にしていたわけではない。講談や芝居の会場では、観客はちゃんと劉備を応援していたのである。

 どう考えてもおかしいのである。しかしこれに明確な解答を出してくれる人も本もなかった。中学生の頃からだから、三十年以上悩んでいたわけである。

 それが先年解決した。簡単なことだった。この世に不思議などないのだよ、である。

 そういうものなのだ、と考えることにしたのである。駄目人間がなぜリーダーになっているのだろう、と考えるのが間違いなのだ。あれこそが優れたリーダーだと認識するべきなのだ、少なくとも中華世界ではそういうことになっているのだ、と。なぜそんなことになるのか。それはたぶん官僚制度のせいである。

 中華世界で官僚制度が完成されたのは科挙の整備が完了した宋代だが、その理論は先秦の諸子百家、法家と道家がすでに完成させている。つまり中華世界では、古くから上から下まで仕事の分担が完全にできあがっているのだ。

 こういう中では、始皇帝や曹操のような、有能であれこれ新しいことをやり出して秩序を乱すリーダーは困る。口では立派なことを言っても、実際には家来に任せっきりで自分は何もしない人間がいい、ということなのである。逆にいえば、劉備や宋江は、リーダーとしては最適だが、他は何のとりえもない人間だ、というのが中華世界の評価なのである。

 この件の詳細は私の『もろこし銀侠伝』『もろこし紅游録』、とくに『紅游録』の「風刃水撃」で語られている――露骨な宣伝になってしまったような気がするが、いや気のせいだろう。

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