講談社BOOK倶楽部

『脱走者の行方』黒岩 勉|日常の謎|webメフィスト
webメフィスト
講談社ノベルス

日常の謎

『脱走者の行方』黒岩 勉

黒岩 勉

 今年の夏、実家に帰省した際、公園の池でザリガニを捕まえたのがすべての始まりでした。4歳と8歳の息子たちにせがまれ、都内の自宅マンションに持ち帰りベランダで飼うことになったのです。

 息子たちがつけた名前はポッキン。ポッキンはかなり大きなアメリカザリガニでハサミは真っ赤。自然の中で生き抜いてきたワイルドな風貌で、身体を摑もうとすると、こちらの指を斬り落とさんばかりの勢いで攻撃してくる猛者でした。息子たちは触ることができず、妻もザリガニは苦手だということで、結局、僕がポッキンの保護者となったのです。

 さっそくネットで飼育方法を確認すると、『ザリガニは脱走名人!』という注意喚起が目に飛び込んできました。これはマズイと思い、深さのあるタライを購入。縁の高さは30センチ近くあり、よじ登ることは不可能なはずでした。

 ところが数日後、洗濯物を干していた妻の悲鳴が。見るとポッキンがベランダを闊歩している! タライを確認すると、ポッキンの小屋として入れていたプラスチック製の円筒がタライの縁に寄せられていました。どうやら、それを足場にして塀をよじ登り脱走したようです。

 さすがは名人。僕は小屋を回収し、ポッキンをタライに戻したのですが、さらに数日後、朝起きるとポッキンの姿がない! 実は4歳の息子が前の晩に小屋をタライに戻してしまい、それを足場に再脱走に成功していたのです。慌てて、ベランダを探しましたが姿はありません。

 ―ポッキンはどこへ消えたのか?

 わが家はいわゆるタワーマンションで、内廊下を囲んでワンフロアに20戸ほどが並んでおり、すべての住戸のベランダが建物の外周で繫がっています。もちろん各住戸のベランダを隔てる壁はあるのですが、その下には隙間があり、ポッキンなら楽に通り抜けることができます。つまり彼は建物の外周を一周自由に動き回ることができるのです。

 ベランダの柵は高く、隙間もないので、外に落ちたとは考えられません。きっと今頃、同じフロアのどこかのお宅のベランダにお邪魔しているはず。

 さて困りました。妻のようにザリガニが嫌いな人にとっては、今回の脱走事件はなかなか大きな問題です。かといってザリガニごときで大騒ぎしないでほしいというお宅もあることでしょう。

 同フロアの方々に『ザリガニ注意報』を出すべきか否か……。妻と二人で真剣に悩んだ訳です。

 話し合いの結果、ザリガニの移動能力では、まだ遠くへは行っていないのではないかという考えに至り、ひとまず、両隣のお宅へお伺いすることにしました。

 片方のお宅はあいにく留守。もう片方のお宅は奥様がインターフォンに出ました。「ちょっとお話があるんですけど」と遠慮がちに伝えると、「え、お話って……」と戸惑いの声。時刻は朝の8時。カメラには僕ら家族の姿が映っているはず。たしかに、こんな時間に家族総出で何の話があるというのか……。恐縮しながらご夫人に事情を説明したところ、「ああ、そうでしたか」とホッとされていました。何か苦情でも言いに来たのかと勘違いされたようです。結局、ザリガニは見ていないというご返答をいただき、僕らはお騒がせしたことをお詫びして、すごすごと退散したのでした。

 手がかりはなし。さて、どうしたものか。このまま放っておくという手もあるのですが、どこかのお宅のベランダのサンダルにポッキンが忍び込んでいて、住人が気付かず踏んでしまったら……。どこかのお宅の赤ちゃんがベランダでハイハイをしていてポッキンがハサミで襲撃したら……。ありえないとは分かっていながらも、ポッキンが引き起こす大惨事が次々と思い浮かんできます。

 そこで妻と相談し、フロアすべての住居に手紙を入れることにしました。

 ザリガニが脱走した事実と、謝罪の意を伝え、見つけたら連絡して欲しいと電話番号を添えて。もちろん、すべてのお宅と近所づき合いがあるわけではないので、見つけても連絡はくれないかもしれません。でも、やるだけのことはやった……。願わくは、マンションを一周回って戻って来てくれないだろうか。不安と謎を抱えたまま、その日は眠りについたのです。

 翌日の朝9時、家で仕事をしていると電話が鳴りました。もしやと思って出ると、うちから6軒離れたM野さんという男性でした。なんと、ザリガニを自宅のベランダで見つけたというのです。M野さんは「気になっているだろうと思って、ご連絡しました」とおっしゃってくれました。思わず電話に向かって何度も頭を下げてしまいます。

 しかし、前日が猛暑日だったこともあり、M野さんの言葉をお借りすれば『熱中症』のためポッキンは天に召されているとのこと。「すぐに引き取りに行きます」と申し出たのですが、M野さんは言いました。「自分で土に埋めておきます。自分は田舎者なので、ザリガニとか平気なので」なんていい人なのだろう。「いやいやとんでもない、ご迷惑はかけられませんので」と僕は食い下がりましたが、もう出かける時間なのでと言われてしまい、引き下がりました。

 取り急ぎ、感謝とお詫びの言葉を伝え、「でもそこまで行っていたんですね」と僕がしみじみ言うと、M野さんも「ずいぶん遠くまで歩いたんですね」とポツリ。お互いにザリガニの脱走劇に想いを馳せたのでした。

 翌日、妻がお詫びの品を持って挨拶に行ってくれたのですが、一人暮らしの若い方で、とても優しそうな人だったそうです。田舎から連れて来てしまったポッキンには申し訳ないことをしてしまったと反省しましたが、その一方で都会にも優しい人はいるんだなぁ、と確認することができた小さな事件でした。

Backnumber

My Precious講談社ノベルス 立ち読みメフィスト あとがきのあとがき 日常の謎
メフィスト賞とは?