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『ささやき』木犀あこ|日常の謎|webメフィスト
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日常の謎

『ささやき』木犀あこ

木犀あこ

 大学一年生のときのことです。当時の私は、下宿先近くのコンビニエンスストアでアルバイトをしていました。全国チェーンのコンビニとはいっても、店は地元の酒屋さんを改装したかのような構えで、営業時間も朝七時から夜の十一時まで。公共料金の支払いや宅配便の発送などは受け付けていたものの、さほど複雑な業務はなく、気楽でやりやすい仕事でした。何よりもオーナーが学生にやさしい人で、夜九時以降は働かせない、テスト期間中は無理なシフトを組ませない、帰省での長期休みも受け入れてくれるなど、なにかと便宜を図ってくれていました。顔を合わせない学生バイト同士がコミュニケーションを取れるように、ひとことノートを更衣室に置いてくれたり、もらいものだと言って野菜をまるごと渡してくれたり。手の空いたときには、学生生活はどうなのか(つらくはないのか)とさりげなく聞いてくれたり。父親ほどの年齢のオーナーは、皆に慕われていました。学生を使い捨ての労働力としてではなく、一個人として扱ってくれること。当時はそこまで実感できてはいませんでしたが、それでもありがたいことだと、ぼんやりとした感謝の念は持っていたように思います。

 そんなアルバイト先で働き始めて、数ヵ月が経ったころ。その日は夕方の五時から夜の九時までのシフトで、私はひとりレジの番をしていました。といっても、いわゆる「ワンオペ」ではありません。オーナーがバックヤードで事務処理をしており、何かあったときにはいつでも店頭に出てきてもらえるようになっていました。さみしい通り沿いにある店のこと、夜八時を過ぎるとほとんどお客さんも来ません。九時になってやってきたオーナーの家族と入れ替わりに、私はレジを離れ、バックヤードへと向かいました。レジカウンター裏にある扉の向こうには、監視モニターと事務机のあるスペースが。更衣室はさらにその奥にあります。事務机に向かい、こちらに背を向けているオーナーは、ノックをして入ってきたこちらには気づかない様子。たまにあることだったので、私はその背に向かって声をかけました。

「オーナー、おつかれさまです」

「あ、おつかれさま」

 眠っていたのでしょうか。笑顔ではあるものの、オーナーの目は赤く、声も少しぼんやりとしているように思いました。その日の業務について何か困ったことはなかったかと訊ねられ、私は消耗品の補充のことなどを話します。オーナーはそれを聞き終え、おつかれさま、ありがとうと、丁寧に言ってくれました。私も次のシフトの日時を口頭で確認し、おつかれさまですと返します。いつも通りの業務報告。互いに挨拶をかわしあい、私が背を向けるか向けないかのタイミングで――。

 オーナーは笑顔のまま、口元をほとんど動かさず、しかしはっきりとした声でささやきました。

 ――なんでなんでなんだよ。許せねえよ……。

 私は振り向きかけた動きを止め、その場で立ち尽くしました。しかしオーナーはこちらを見ず、再び事務机に向かって、領収書の整理などを始めています。しばらくして、私がまだその場にいることに気づき、どうしたのかと問いかけるような笑顔を見せました。その様子はいつも通りで、何の変わったところもありません。本当に、何ひとつ。

 私はもう一度頭を下げ、事務スペースの奥にある更衣室へと向かいました。震える手で着替えを済ませ、バックヤードを通って店を出るときには、オーナーの背に声をかけることはできませんでした。

 ブラッドベリの短編集『猫のパジャマ』(河出文庫)に収録されている掌編に、「完全主義者」と題されたものがあります。

 中部大西洋上を往く船上でのこと。語り手は妻とともに「完全主義者」を自称する男性と出会います。男性は弁護士で、身なりもよく、いかにも世で成功した人間といった印象。男性は全世界を回って稀覯書を収集していること、そのきらびやかな生活を語り、三人はゆったりとした食事を共にします。旅先でのささやかな巡り合い。心の温まるひととき。穏やかなときを過ごしたあと、三人分の支払いを済ませた弁護士は、瞼を閉じ、再び開けた目で遠いところを見つめ、こう言い放ちました。

「――最後にひとつ教えてください。なぜわたしの三十五歳になる息子は、自分の妻を殺し、自分の娘の命を奪い、自分は首を吊ったのでしょう?」

 あとから考えても、どうしてもその理由がわからない。不可解である。日常において、そのような経験は、「現象」に関しては極端に少ないように思います。不思議なことにはだいたい説明がついてしまう。むしろ、どうしてもわからない、説明のしようがないのは、人の言動にかかわる部分、その言動をとらせた人間の感情の部分ではないでしょうか。あの人はあのとき、あのタイミングで、なぜあんなことを言ったのか。なぜその相手に言ったのか。なぜ、私だったのか。「完全主義者」の弁護士が、唐突にくだんの言葉を口にしたことにも、いろいろと説明はつけられそうです。語り手たちに自分の息子夫婦を重ねたのか。誰彼構わずにそのことを話さずにはいられなかったのか。それでも「なぜ」は残ります。語り手の夫婦も聞き返したかったことでしょう。「なぜ、あなたはわたしたちに、今このタイミングで、その話をなさったのですか」と。

 あの日私が耳にしたオーナーのささやきは、なんだったのでしょう。知らないうちに、私が何かをやらかしていたのでしょうか。その場にいない誰かへの、届かない罵倒であったのでしょうか。あるいは、それは誰かに向けられたものではなく、穏やかだったオーナーがどうしても、どうしてもこらえきれなかった、痛々しいまでの心の叫びであったのでしょうか。

 その後、私はそのままアルバイトを続け、学校が忙しくなってきた三年生のころに辞めてしまいました。店はそのあとすぐに営業を一時休止し、その後私が卒業するまでに、再開することはなかったように思います。今はどうなっているのか。私はまだ、その後のこと、そこで働いていた人たちのことを、確かめに行けてはいません。

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