講談社BOOK倶楽部

『あやかしなこと』平山夢明|日常の謎|webメフィスト
webメフィスト
講談社ノベルス

日常の謎

あやかしなこと

平山夢明(ひらやまゆめあき)

 小説書きとして糊口をしのいでいる一方で、私は生まれつき世に蔓延る奇っ怪な話というものが三度の飯よりも大好物だったので、そちらの収集披瀝を生業にしております。

 思えば奇っ怪な事というのは幼い頃から身の回りで頻々と起きていたような気がします。なかでも驚いたのは小学三年生の時、A君という友だちの家に遊びに行ったのです。A君の家は粗野粗暴を旨とする我が家と違い、居間もテレビ部屋、ごろ寝部屋などというものではなく、如何にもリビングなリビング、台所、飯場などというものではなく如何にもキッチンなキッチンが、ちゃんとしている家―つまり文化的だったのです。その日、A君は私に野球盤というゲームを見せてくれる約束でした。二階にある彼の部屋に行くと、A君が「ひょえ」と珍な声を上げたのです。見ると机の上に置いてあるプラスチック水槽のなかで金魚が一匹、腹を見せて死んでいます。A君は残念そうに「おとつい、夜店で獲ってきたばかりなのに……」と言いました。するとそこへ冷たいジュースを盆に載せたA君のお姉さんがやってきました。私たちのしょげ顔に気づいたお姉さんは「あら、死んでるのね」と言うと、水槽の上に両手をかざしたのです。既に中学生になっていたと思われるお姉さんは以前から所謂、科学的冷静さを感じさせる人でしたので、いきなり手かざしを始めたのに驚き、あまつさえ暫くすると金魚がぴくぴくと痙攣を始め、やがてツーっと泳ぎ始めた時には度肝を抜かれました。私が呆気に取られているとお姉さんは「良かった。まだ中まで腐ってなかったのね」と笑って階段を下りていきました。「ありがとう、ねえちゃん」などとA君も言い、そのあまりにも日常的で普通のことのように済ませている態度に常識の背骨がぼっきりと折れてしまったのを憶えています。A君曰く、あまり時間が経つとダメだし、小さな金魚か蛙ぐらいにしか通じないというのですが。どちらにせよ衝撃の強さでは目の前で清田君に念力でスプーンを千切って貰った時以上のものがありました。

 世の中には何か教科書や大人の知らない【謎】があるに違いない、そしてそれはとてつもなく面白い。その時の体験が、今になってもなお幽霊や奇人の話を追っかけ回すきっかけになったのかもしれません。余談ですが、知り合いの映像プロデューサーで、幽霊に遭ったら「世界一の金持ちにしてくれ」と頼むことを生き甲斐に心霊スポットを回っているのがいます。「普通は祟らないでくれとかじゃないの?」と言うと「だって、現代の科学では証明できないものだろう。そんな凄いものなら俺ひとりを金持ちにすることなんか簡単なはずだろ」と断言するのです。心霊番組を作る動機としては如何なものかとは思いますが、知り合いでお化け嫌いの女の子にこの話を致しましたところ、途端に目がキラキラと輝き「あ、私もそうしよう」と言って暫くすると〈幽霊ウェルカム派〉になったのもいますから、人助けにはなるようです。

 高校の時、母方の祖母が亡くなったのですが、私はその時、「おばあちゃん、死んだら足の親指を動かして」と枕元で頼んだことがありました。本人は既にアノ世とコノ世でしたので、どの程度、伝わっていたのかは神の味噌汁なのですが、とにかく高校時代は自分が毎日、柔道部で絞め落とされ臨死していましたので、きっとおばあちゃんの死というやつも、どこかで地続きになっていて、あまり深刻になれなかったのかもしれません。そしていよいよ臨終が近いということになり、親族が全員集められたのです。私は当然、足下にいたのですが、大人が寄って集って「頬に触ってやれ」「顔を見て最後の挨拶をしろ」というので厭厭、従っていますと、本当にやばくなってきたようなのです。僕は後は妹や他の孫に任せて足下に行き、親指を触っていました。するとお医者が看護師を連れてやって来まして、全員が病室から出されてしまいました。一、二分後、ドアが開くと看護師が哀しげに頭を下げ、全員がおばあちゃんの死を確信するのですが、僕はその時も遺体に近づくと親指をそっと握ってみました。それは思った以上に硬くてざらざらしていたのですが、不意に手の中でぷんと動いた気がしたのです。大きくはありません、小さい動きでしたけれど。確かにその中で〈ぷん〉と動いたのです。今になって思えば、それは誰かが取りすがった時に遺体が揺れたのだとか、まだ細胞が死んだわけではないのだから単なる腱の反射だとか、いろいろと理屈も付くのでしょうけれど、あの時は単純に〈あの世は在る〉ということになったのです。嬉しいことにそれは私にとっては全くマイナスになりませんでした。逆に、日々の生活のなかでへとへとに疲れてしまったり、思い通りにいかないことがあって、どうにもやりきれなくなったとき、ちょっと山を眺めて目を休めるようなつもりで〈あの世の怪奇〉について考えると、なんだか自分の抱えている深刻さが軽くなるような気がしたのですね。

 世の中にはいろいろと白黒付けたい人がいて、よく「心霊は本当に実在するのか?」みたいなことを問われたりしますが、私にとってはどうでも良いんです。だって科学で証明できないものの存在を判定することはできないんですから。それよりも「こんな話があった」「こんな体験をした」って熱心に話して貰えることの方が重要で、それを直接、聞いた時に一瞬ブルッとしたり、ああと腑に落ちたりして自分の中のストレスが解消されるほうが大事。そして、それは時にはどんなカウンセリングや薬よりも効く場合があるんですよ。

 怪談やホラーはお化けと同じ、一時の〈憂さ晴らし〉になれば良いんです。

Backnumber

あとがきのあとがき 日常の謎
メフィスト賞とは?