山本巧次
鉄道会社に奉職して、三十五年近くになる。勤めながら小説を書くようになったが、初めは時代もの(厳密にはちょっと違うが)から入ったので、いずれは鉄道ミステリを、と考えていた。幸い、割合早くその機会が巡って来て、昨年、明治時代の鉄道と、昭和から平成までの路面電車を題材にしたものをそれぞれ上梓させていただいた。それを書きながら改めて思ったのだが、線路の上というのは、結構謎だらけである。
いきなりこう言ってしまうと、鉄道ってアブナい代物なのかと思われかねないが、そういう意味ではない。誰もが身近に利用している鉄道だが、普段は気にもせず過ごしているのに、改めて考えてみると明確に説明できないようなことが、思いのほか一杯ある、ということだ。
無論、一般の方々が鉄道について謎だと思うことは大抵、鉄道で働く人々にとって謎でも何でもないのだが、たまに鉄道員でも首を捻る話もある。というのは、鉄道には全国共通の事柄と、各社ごとに独自に決めている事柄があるからだ。その一つに、「列車種別」というものがある。急行とか特急とかいう、アレである。
一番速い電車は、と聞かれれば、JRなら「特急です」となる。これは誰でも納得だろう。しかし、私鉄はそれでは済まない。特急の上に「快速特急」あるいは「快特」が存在したりする。「特急」のバリエーションとしては、「通勤特急」「直通特急」、さらに「準特急」「区間特急」なんていう種別まで存在する。
JRの前身、国鉄にはかつて「超特急」という種別があった。新幹線の東京―新大阪間が開業したとき、超特急「ひかり」と特急「こだま」が設定され、料金も異なっていたのである。当時は新幹線が「夢の超特急」などと呼ばれ、その未来的な響きが子供たちの想像力をかき立てたものである。その「超特急」も、新幹線が日常の乗り物に変わっていくと輝きを失い、昭和五十年の博多開業時に消えてしまった。
さて、特急より下の種別になると、さらにややこしくなる。「急行」「準急」ぐらいは誰でも馴染みがあるだろうが、過去のものを含めいくつか列挙してみよう。「快速急行」「区間快速急行」「快速」「区間快速」「高速」「区間急行」「区間準急」「直行」「新快速」「準快速」。さすがにプロでもわけがわからない。会社によっては、快速が急行の上だったり下だったりするので、なおわからない。大昔は急行ぐらいしかなかったのだが、旅客サービスのため停車駅を増やしたり減らしたりするたびに新しい種別を作ったので、こんなに増殖してしまったのだ。
それじゃあ逆に、一番遅い列車は、と聞いてみよう。そりゃあ普通列車です、と思えばさにあらず。「各駅停車」というものがある。えっ、それ、普通と違うの?
これが意外と難しい。その違いは、鉄道員でも即答し難いのである。
全駅に停まるのが基本の列車について、「普通」としているのは東武、京成、近鉄など。「各駅停車」つまり「各停」としているのは西武、東急、小田急など。会社によって違う。(ただし、音声案内では「普通」を「各駅停車」と言っている会社もある)南海だけは両者が共存しているが、これは同社の二大幹線である南海線と高野線が並列走行する区間で、南海線側にホームがない駅が二ヵ所あり、南海線は全列車がその二駅を通過するため、そちらを「普通」、二駅にも停まる高野線を「各停」と使い分けているのである。この理屈でいけば、「普通」列車には通過駅があってもいいことになる。それでいいのか。
いいのである。日本の全ての鉄道の基本的な制度は、ほぼ旧国鉄のそれに沿っているが、旧国鉄では特別料金を徴収する優等列車(特急、急行、準急)と普通列車に分けられていた。つまり、特別料金を取らない列車なら通過駅があっても普通列車なのである。先に挙げた種別のうち、JRの「新快速」や「快速」は、特別料金不要なので制度上は普通列車の扱いなのだ。あくまで制度上なので、旅客へは全駅に停まる列車を「各駅停車」と言って案内していたりする。
じゃあそれで、「普通」と「各停」の話は解決じゃないか。ところが、そうはいかなかったりする。
二〇〇九年七月、それまで大井町から田園都市線に接続する二子玉川までだった東急大井町線が、三つ先の溝の口まで延長された。そのとき、大井町線の線路を田園都市線の上下線の間に割り込ませる形で増設したので、この区間にある二子新地と高津の二駅は、大井町線用のホームが作れなかった。このため、大井町線の「各停」の大半はこの二駅を通過するようになり、通過駅のある「各停」ができてしまったのである。さっきの南海のケースと似ているが、東急はずっと「各停」で統一していたので、今さら「普通」を作るわけにいかなかったのだろう。このままでは混乱するので、二駅通過の各停は種別表示や時刻表の表示を緑色にし、二駅に停まる各停はそれを青色にして区別している。
こうなってしまうと、もう何でもありである。このままでは、いずれ急行より速い各駅停車が出現するんじゃなかろうか。
鉄道会社も、わざとわかりにくくしているわけではない。目的は全部、サービス向上のためなのだが、鉄道には設備上、安全上の制約がいろいろとあるので、それを避けながら最善の道を探るうち、結果としてどこか変テコなものができてしまう、というのは、ありがちな話である。変だとなれば後から改良を加えていくから、やがて満足できる状態にはなるのだが、その頃には次の問題がどこかで生まれている。まあ、鉄道に限らず、世の中全体がそうやって回っているのかも知れないが。
ところで、「普通」と「各停」が出るなら「鈍行」はどうしたんだ、と言われる向きもあるかも知れない。実は、鉄道の列車種別に「鈍行」というものはない。あれは鉄道の用語でなく、俗語である。おそらく、昔々に「急行」ができた後、その反対語として生まれたものであろう。従って、定義はないのでどう使おうと自由なのだが、不思議に最も旅情を感じるのが、この「鈍行列車」という言葉なのである。「普通列車の旅」では味気なさすぎる。「各駅停車の旅」でもいいが、まだ若干固い。「鈍行列車の旅」と言えば、のんびりまったり、時間に追われずゆっくり流れる車窓を眺め、駅ごとにその町や村の香りを嗅いでいく、そんなイメージができあがるのだ。そんな列車にふさわしいのは、機関車に牽かれた旧型客車なのだが、そんな鈍行列車が消えてもう久しい。やがては「鈍行列車」という言葉自体も消えていくのだろうか。
- 『腐れ縁』 最東対地
- 『九本指』 山吹静吽
- 『忘れられた犯人』 阿津川辰海
- 『ささやき』 木犀あこ
- 『普通と各停って、違うんですか』 山本巧次
- 『雨の日の探偵』 階 知彦
- 『神々の計らいか?』 吉田恭教
- 『虫』 結城充考
- 『監禁が多すぎる』 白井智之
- 『チョコレートを嫌いになる方法』 辻堂ゆめ
- 『銀河鉄道で行こう!』 豊田巧
- 『方向指示器』 小林泰三
- 『庭をまもるもの』 須賀しのぶ
- 『寅さんの足はなぜ光る』 柴田勝家
- 『脱走者の行方』 黒岩 勉
- 『日常の謎の作り方』 坂木 司
- 『味のないコーラ』 住野よる
- 『鍵のゆくえ』 瀬川コウ
- 『彼らはなぜモテるのだろうか……』 市川哲也
- 『やみのいろ』 中里友香
- 『インデックス化と見ない最終回』 十市 社
- 『文系人間が思うロボットの不思議』 沢村浩輔
- 『街道と犬ども』 石川博品
- 『沖縄のてーげーな日常』 友井 羊
- 『ジャンルという名の妖怪たち』 ゆずはらとしゆき
- 『カロリー表示は私を健康に導くのか』 秋川滝美
- 『終電を止める女』 芦沢 央
- 『女子クラスにおける日常の謎』 櫛木理宇
- 『IBSと遅刻癖』 岡崎琢磨
- 『シューズ&ジュース』 青崎有吾
- 『キャラが立つとは?』 東川篤哉
- 『「源氏物語」のサブカルな顔』 荻原規子
- 『そこにだけはないはずの』 似鳥 鶏
- 『『美少女』に関する一考察』 加賀美雅之
- 『食堂Kの謎』 葉真中顕
- 『寒い夏』 ほしおさなえ
- 『人喰い映画館』 浦賀和宏
- 『あやかしなこと』 平山夢明
- 『あなたの庭はどんな庭?』 日明 恩
- 『日常の謎がない謎』 小松エメル
- 『影の支配者』 小島達矢
- 『「五×二十」』 谷川 流
- 『グレープフルーツとお稲荷さん』 阿部智里
- 『ボールペンを買う女』 大山誠一郎
- 『日常の謎の謎』 辻真先
- 『『サイバー空間におけるデータ同定問題』あるいはネット犯罪量産時代』 一田和樹
- 『囲いの中の日常』 門前典之
- 『カレーライスを注文した男』 岸田るり子
- 『お前は誰だ?』 丸山天寿
- 『世界を見誤る私たち』 穂高 明
- 『名探偵は日常の謎に敵うのかしら?』 相沢沙呼
- 『で、あなた何ができるの?はあ、皇帝だったらたぶん…』 秋梨惟喬
- 『すっぽんぽんでいこう!』 桜木紫乃
- 『右腕の長い男』 麻見和史
- 『坂道の上の海』 七河迦南
- 『彼女は地下鉄でノリノリだった、という話。』 柴村仁
- 『その日常で大丈夫か?』 汀こるもの
- 『成功率百パーセントのダイエット』 小前亮
- 『謎の赤ん坊』 蒲原二郎
- 『一般人の愚痴と疑問』 沼田まほかる
- 『寄る怪と逃げる怪』 高田侑
- 『福の神』 木下半太
- 『マッドサイエンティストへの恋文』 森深紅
- 『私の赤い文字』 大山尚利
- 『となりあわせの君とリセット』 詠坂雄二
- 『美人はなぜ美人なのか』 小川一水
- 『なぜモノがあるのか。』 鈴木光司
- 『この目で見たんだ』 北村薫
- 『運命の糸が赤いのは?』 山下貴光
- 『念力おばさん』 湊かなえ
- 『方向オンチはなぜ迷う?』 山本弘
- 『ゆがむ顔のカルマ』 真藤順丈
- 『子供だけが知っている』 宇佐美まこと
- 『人はなぜ、酒を飲むのか』 薬丸岳