小林泰三
わたしはペーパードライバーなのである。せっかく免許を持っているのに、使わないのは勿体ないと、ペーパードライバー教習に通ったりもしたのだが、どうも運転には馴染めないのだ。
何が苦手かというと、咄嗟の判断というものに不向きなのだ。もちろん人命にかかわる緊急時にはそんなに迷わない。とにかくブレーキを踏むなり、ハンドルを切るなりして、できるだけ安全な行動をとればいい。わたしが迷うのは、緊急時以外の局面なのだ。
たとえば、交差点で右折しようとするとき、前方から対向車がやってくるのが見えたとしよう。すでにその車が交差点に差し掛かろうとしているのなら、当然その車に優先権がある。問題なのは遥か前方数百メートルに対向車がある場合だ。なんとなく、その車が交差点に到達する前に右折を完了できそうな気がする。しかし、もしその自信の根拠は何かと訊かれたりしたら、返答に詰まってしまうだろう。論理的に右折する余裕があるということが説明できないのだ。
そんなことを考えていると、対向車はさらに迫ってくる。しかし、今ならまだ余裕を持って右折できそうな気がする。でも、ひょっとしたら右折の途中で手間取ったりして、間に合わなくなってしまうかもしれない。
こうなったら、このまま何もせずに五秒ほど待った方がいいんじゃないかという気がしてくる。五秒経てば、対向車はほんの百メートルまで接近する。これは右折を開始しない大義名分となる。大手を振って右折待ちが出来るのだ。
よし。あの車が通り過ぎるのを待とう。
そう決心した瞬間に後ろからクラクションを鳴らされたりする。後ろの車は充分に右折できると判断している訳だ。では、右折を開始しようか。
いや。騙されてはいけないのだ。右折できるというのは、あくまで後ろの車の運転手の判断でしかない。それはその運転手の反射神経や運転技量に依存することであって、わたしに同じことができるとは限らないのだ。しかも、今はクラクションを鳴らされて動揺している。こんなときに右折を強行して失敗したら、それこそ目も当てられない。曲がりかかったところで、対向車と後続車の挟み撃ちにあって、身動き取れなくなってしまうかもしれない。そんなことになったら、わたしのせいで大渋滞だ。
とにかく、ちょっと右折するだけで、毎回これだけの判断を迫られるのだから、堪ったものではないのである。
これ以上に困るのが方向指示器を出す方向だ。こんなことを言うと、馬鹿かと思われる方もいるだろう。方向指示器は車の移動する方向に出せばいいのだから、そもそも悩むのはナンセンスだ。方向指示器を出せないということは自分の進む方向がわからないということだ。そんな馬鹿なことがあろうかと。
いや。おっしゃることはわかるのだが、現に方向指示器をどちら向けに出していいのかわからないことはあるのだ。
例えば、交差点で右折するときは右に、左折するときは左に出す。これはわかる。右の車線に変更するときは右に、左の車線に変更するときは左に出す。これもわかる。
交差点は多くの場合、九十度に近い角度で交わっている。そして、進路変更は平行に走るレーン間の移動、つまり角度はゼロ度だ。じゃあ、四十五度の場合はどうなんだろうか? つまり、ちょうど「入」のような形で、本道に対し、左から斜めに側道が合流しているとき、側道からそのまま方向転換せずに本道の左側のレーンに入る場合、方向指示器は右に出すべきなのか、左に出すべきなのか。
この「入」型の合流を変形したT字型交差点と見た場合、方向指示器は左に出すべきだ。しかし、同一方向を走る道路の進路変更として見ると、右に出すべきとなる。はたしてどちらが正解なのだろうか?
試しに身の回りの人間に尋ねてみたところ、免許を持っている人間の殆どが即答する。しかし、面白いことにその答えは必ずしも一致しないのだ。ある者は「右に出すべきだ」と言い、またある者は「左に出すべきだ」と言う。しかも、各人自信たっぷりなのだ。まあ、当然だろう。自動車を運転しているのなら、これによく似たシチュエーションに遭遇する事もあるはずで、その時にどちらに出すか決断はすでに済ませているはずだ。もし即答できないとしたら、いままでたまたまそのようなシチュエーションに遭遇しなかった幸運の持ち主であるか、瞬時の判断が不得意な運転向きでない人ということになる。
道路交通法ではどうなっているのかと調べると、「車両(自転車以外の軽車両を除く)の運転者は、左折し、右折し、転回し、徐行し、停止し、後退し、又は同一方向に進行しながら進路を変えるときは、手、方向指示器又は灯火により合図をし、かつ、これらの行為が終わるまで当該合図を継続しなければならない」としか書かれていないので、こういう場合は、どうすればいいのかはっきりしない。
ネットで調べても結構、様々な意見が見付かる。
わたしの個人的な結論は「左」である。なぜなら、右だとすると方向指示器の左右が入れ替わる特別な角度が存在することになり、やはりその角度付近では混乱が生じてしまうからである。
しかし、実際の運転中にこれだけのことを考えられる余裕がある訳もなく、即座に判断できる人たちが羨ましいのである。
- 『腐れ縁』 最東対地
- 『九本指』 山吹静吽
- 『忘れられた犯人』 阿津川辰海
- 『ささやき』 木犀あこ
- 『普通と各停って、違うんですか』 山本巧次
- 『雨の日の探偵』 階 知彦
- 『神々の計らいか?』 吉田恭教
- 『虫』 結城充考
- 『監禁が多すぎる』 白井智之
- 『チョコレートを嫌いになる方法』 辻堂ゆめ
- 『銀河鉄道で行こう!』 豊田巧
- 『方向指示器』 小林泰三
- 『庭をまもるもの』 須賀しのぶ
- 『寅さんの足はなぜ光る』 柴田勝家
- 『脱走者の行方』 黒岩 勉
- 『日常の謎の作り方』 坂木 司
- 『味のないコーラ』 住野よる
- 『鍵のゆくえ』 瀬川コウ
- 『彼らはなぜモテるのだろうか……』 市川哲也
- 『やみのいろ』 中里友香
- 『インデックス化と見ない最終回』 十市 社
- 『文系人間が思うロボットの不思議』 沢村浩輔
- 『街道と犬ども』 石川博品
- 『沖縄のてーげーな日常』 友井 羊
- 『ジャンルという名の妖怪たち』 ゆずはらとしゆき
- 『カロリー表示は私を健康に導くのか』 秋川滝美
- 『終電を止める女』 芦沢 央
- 『女子クラスにおける日常の謎』 櫛木理宇
- 『IBSと遅刻癖』 岡崎琢磨
- 『シューズ&ジュース』 青崎有吾
- 『キャラが立つとは?』 東川篤哉
- 『「源氏物語」のサブカルな顔』 荻原規子
- 『そこにだけはないはずの』 似鳥 鶏
- 『『美少女』に関する一考察』 加賀美雅之
- 『食堂Kの謎』 葉真中顕
- 『寒い夏』 ほしおさなえ
- 『人喰い映画館』 浦賀和宏
- 『あやかしなこと』 平山夢明
- 『あなたの庭はどんな庭?』 日明 恩
- 『日常の謎がない謎』 小松エメル
- 『影の支配者』 小島達矢
- 『「五×二十」』 谷川 流
- 『グレープフルーツとお稲荷さん』 阿部智里
- 『ボールペンを買う女』 大山誠一郎
- 『日常の謎の謎』 辻真先
- 『『サイバー空間におけるデータ同定問題』あるいはネット犯罪量産時代』 一田和樹
- 『囲いの中の日常』 門前典之
- 『カレーライスを注文した男』 岸田るり子
- 『お前は誰だ?』 丸山天寿
- 『世界を見誤る私たち』 穂高 明
- 『名探偵は日常の謎に敵うのかしら?』 相沢沙呼
- 『で、あなた何ができるの?はあ、皇帝だったらたぶん…』 秋梨惟喬
- 『すっぽんぽんでいこう!』 桜木紫乃
- 『右腕の長い男』 麻見和史
- 『坂道の上の海』 七河迦南
- 『彼女は地下鉄でノリノリだった、という話。』 柴村仁
- 『その日常で大丈夫か?』 汀こるもの
- 『成功率百パーセントのダイエット』 小前亮
- 『謎の赤ん坊』 蒲原二郎
- 『一般人の愚痴と疑問』 沼田まほかる
- 『寄る怪と逃げる怪』 高田侑
- 『福の神』 木下半太
- 『マッドサイエンティストへの恋文』 森深紅
- 『私の赤い文字』 大山尚利
- 『となりあわせの君とリセット』 詠坂雄二
- 『美人はなぜ美人なのか』 小川一水
- 『なぜモノがあるのか。』 鈴木光司
- 『この目で見たんだ』 北村薫
- 『運命の糸が赤いのは?』 山下貴光
- 『念力おばさん』 湊かなえ
- 『方向オンチはなぜ迷う?』 山本弘
- 『ゆがむ顔のカルマ』 真藤順丈
- 『子供だけが知っている』 宇佐美まこと
- 『人はなぜ、酒を飲むのか』 薬丸岳