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『寅さんの足はなぜ光る』柴田勝家|日常の謎|webメフィスト
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日常の謎

『寅さんの足はなぜ光る』柴田勝家

柴田勝家

 生まれも育ちも葛飾柴又と、そう言えれば小気味好いのだが、生憎とワシが生まれたのは千葉県の病院だ。それでも一応、幼少期から柴又で過ごしている。下町風情溢れるこの街で暮らしていると、不思議な光景に出会うこともある。

 例えば、柴又駅に寅さんの銅像がある。

 言わずと知れた『男はつらいよ』の主役たる好人物の像は、演じた渥美清が亡くなってから数年後に造られた。駅に向かい歩きつつ、半身を捻って振り返る像容は、妹さくらの見送りを受けながら再びの旅に出るかのよう。

 そんな寅さんの銅像は、どういう訳か雪駄を履いた左足が光っている。比喩的な意味ではなく、単純にそこだけが異様に照り輝いているのだ。

 長年の風雨を、変わらぬ笑顔で耐え忍んできた車寅次郎は、既に体の色もくすんで、銅像として立派なものとなっている。しかし、その左足だけが鮮やかに黄金の輝きを放っている。

 何も最初から、左足が特別だった訳ではない。覚えている限り、ここ数年の間に、突如としてピカピカと光り始めたのだ。何か理由があるのだろう。そう漠然と思いながら、いつものように柴又駅を利用していると、ある時、その答えを見つけることができた。

 寅さん像の前で写真を撮っていた中年女性の集団、その一人が、ふと何気なく左足を撫でているのを見かけたのだ。

「ほら、運気が上がる」

 一人がそんな風に言うと、今度は他の女性達も、こぞって寅さん像の左足を撫で始めた。多くのマドンナに心を惑わされた車寅次郎が、この段にあってはご婦人方に一瞥もくれず、ただ左足を差し出しているのみ。

 ははあ、ああして大勢の人が撫でているから、左足だけが磨かれているのだ。

 一度気づいてしまえば、簡単なことで、確かに多くの人達が寅さん像の左足を撫でている。

 ある老夫婦は、お好みのポーズで写真を撮った後、奥さんの方が嬉しそうに寅さんの足を撫でる。その妻に請われ、恥ずかしそうに親指を触る夫の姿。観光に来た若い女性の集団も、その光景を見て、じゃあ自分達も、と触っていく。こんなことが繰り返されるので、寅さん像は左足だけが、光り輝くようになったのだ。

「どんどん触っていってください。寅さんの左足を触るとご利益がありますよ」

 そう言って、駅前を行き来する観光客を呼び込むのは地元の店の人だ。

 なるほど、観光地らしい在り方だな、と思う。例えば、大阪ならビリケンさんの足を撫でればご利益があるという。他にも、牛の像を撫でて病気平癒を願う撫で牛やら、撫で仏、撫で大国、撫で弁天などなど。日本だけではない。外国でも、猪の銅像の鼻を撫でるやら、聖人の足を撫でるやらと、人間はご利益を授かる為に、各地で色んなものを撫でる風習があるようだ。

 そういうことなら、撫で寅さんというのも頷ける話だ。柴又帝釈天は、まさに信仰の場でもあるのだから、寅さんが仏様のように扱われるのも理解できる。

「それなら、どうして左足を撫でるとご利益があるのか」

 そんな当たり前の疑問に対して、駅前で観光案内を務めるボランティアの人は、こんな風に答えている。

「寅さん記念館に、寅さんの別の像があるんですよ。その像は右足の雪駄が脱げ落ちている形で造られてるんですが、左足の雪駄はそのまま。左足の雪駄は落ちてない、つまり運気が落ちない、あるいは受験に落ちない、と。そういう訳です」

 ほほう、と、多くの人達が納得し、これまた寅さん像の左足を触って去っていく。それはそれで微笑ましいものなのだが、一方で、はてな、と思うこともある。

 古くから利用している柴又駅だ。寅さんの像ができた頃から知っているが、昔はそんな謂れは無かったはずだ。そもそも、左足を撫でるようになったのも、ここ十年以内のことのように思う。

 そう考えると、この理由も後付けのように思われる。つまり、いつ頃からか左足が撫でられるようになり、その結果として「ご利益」があると言われるようになって、その理由が諸説織り交ぜて語られるようになった、というような流れだ。

 なんとも曖昧な話だが、考えてみれば、世間に溢れている俗信というものは、こういった理由定かならぬ物事に対して、後付けでそれらしい理由がつけられることで広まっていく。

 今そこにある事象(左足を撫でる)と、人々の心意(ご利益がある)という二つの関係性の、その隙間を埋めるように理由が作られ、やがては伝説や伝承となっていく。

 もしも、数百年後にも寅さんの像が残っていたとしたら、どうだろう。

『男はつらいよ』の記録は残るかもしれないが、未来の映画学者でなければ、知ることもないものになっているかもしれない。対して、一般には由来も解らぬ『トラサン』なる銅像は、左足を触ると幸福になるなどという伝説を持って、人々に記憶されるかもしれない。

 信仰というものは、原典などお構いなしに勝手に広まっていく。遠く未来の柴又、高層ビルに囲まれているか、あるいは増水した江戸川に飲まれているか、いずれの光景であれ、そこにある左足だけが異様に輝く銅像を目指して、多くの人が巡礼に訪れる。寅さんの左足の輝きには、そんな光景すら幻視してしまえる。

 さてしかし、真に理解できないのは、どうして人々が銅像の特定部位に興味を示し、そこを撫でずにはいられないのか、その心性そのものだ。

 人は、日常に紛れ込んだ銅像という異物に接触し、そこから何か目に見えないエネルギーを抽出しようとでもしているのだろうか。それは、人の持つ動物的な本能だとでもいうのか。

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