荻原規子(おぎわらのりこ)
最近「源氏物語」を訳しています。面白いです。読めば読むほど嵌まる作品ですね。
ちょっと考えただけでも謎だらけです。ほぼ確定している学説もすべて、一から疑ってかかるべきと感じます。まずは、紫式部が一人でこれを書いたのかが怪しい。そして、何のために書いたのか。
私は学生時代から「枕草子」が好きで、一条天皇の宮廷風俗が面白かったので、「源氏物語」を読んだのも、宮廷風俗が知りたくて読むところがありました。そういう鑑賞のしかたをされる作品なのは否めません。千年前の貴重な風俗資料であり、雅やかな王朝文化の理想形として、後世の人々が学ぶために生き残ったものでしょう。
一方で、お話としては、長編作品と考えると読みづらいと思っていました。少なくとも前半の帖は、歌物語のシチュエーションドラマのようです。そうであっても、光源氏の若い時代はじつに楽しげに書いてあります。少女小説文庫を思い浮かべました。作り手と受け手の距離が近く、感想をフィードバックしながら続きを作るエンターテインメントを思わせるのでした。
若い頃からそういう感触で親しんできた私は、近年さらに度合いを増して、「源氏物語」は宮廷女房たちの同人誌二次創作だと思えてきました。女房同士の「薄い本」大系と考えると、一番納得がいくのです。彼女たちが共通基盤とした本家作品が、「伊勢物語」に似た、美しい貴公子の女性遍歴だったわけです。
それなら、作者はただ一人ではないはずです。だいたい、当時の宮廷に紫式部という巨匠がただ一人存在し、他の女房は読むだけだったと考えるのは、あまりにも不自然です。同じくらい創作能力のある女性は並み居るはずだし、いいものは書写する時代です。
そして、「スピンオフ」という創作形態を「源氏物語」に当て嵌めると、ストーリーが右往左往する理由が一気に解明すると気づきました。主役より端役の描写が詳しいことが多々あるという謎も、みんなが寄ってたかって脇役を膨らませたのなら理解できます。
あまりに多くの語彙や引用を持ち、あまりに多くの一回限りの登場人物がいると指摘される「源氏物語」です。それでも国文学者の世界では、作者複数説は言ってはならないお約束らしいです。でも、それも謎ですよね。言うと、どこの権威が失われるのでしょう。
素人の私が読んでも、ここからはっきり文体が異なると感じるのが、「若菜」以前と「若菜」以後との変質、そして、「幻」以前と「幻」以後との変質でした。
私が、最大の謎に感じて知りたくてならないのは、どうして「若菜」はあれほど長大だったのか、ということです。奇っ怪としか言いようがありません。あらゆる点で不利なのに、一体だれが、これほど長くなるまで書きためていたのでしょう。最初の紫式部と同じ人には思えない部分です。
学者は「紫式部日記」に記された彰子中宮への豪華本献呈や、一条天皇の褒め言葉を根拠にして、藤原道長の政治戦略を強調し、この作品が書かれた理由を説くようですが、「源氏物語」の内容がお后の読み物を目標にするとは、到底思えません。目線はすべて女房のもので、主君階級のゴシップねたや批判が遠慮なしに綴ってあるのですから。
当時の女流仮名文学は、今で言うなら、漫画やアニメの立ち位置にあるサブカルだったはずです。権威ある男の教養は漢書漢詩文にあり、仮名で書いた作り話は女と子どもの遊び事でした。それでも大人気作が頭角を現してきたあたりが、今の漫画やアニメとよく似ています。サブカルだからこその勢いがあったと思います。
声を大にして言いたいのは、「源氏物語」がしかつめらしく読まれすぎている気がしてならないことです。後世の治世者が、廃れた王朝の威風を政治的に利用してきたからでしょう。その後、アーサー・ウェイリーが日本人の自覚より早く西欧で価値を広めたため、国内で力んだ人々がいたことも関係するかもしれません。
でも、個人が空想するのは勝手なので、私は堅苦しい古典ではなく、多数の女房が批評しながらアイデアを持ち寄ったサブカル「源氏物語」を想像して楽しんでいます。この作品には、お気に入りの二次元キャラをつかってサイドストーリーを作り、同志と語ることに夢中になっている女子のふるまいに、とてもよく似たところがあります。ヤマなしオチなし、どこまでも続けられる余地を残すところもそっくりです。
そうした交流の中から、突然進化した続編が生まれ出ることも、年月をかければあり得ることでしょう。「源氏物語」が「若菜」で達した境地は、古さを考えると確かにただものではないのです。作品のテイストも最初のほうとまるで異なり、歌がメインにはなりません。英訳したアーサー・ウェイリーは、「若菜」を経た宇治十帖に感心して「嵐が丘」などの英国文学に匹敵すると考えたのであり、そのことにも頷けるのでした。
アーサー・ウェイリーという英国人も謎で、私はこの人物にも興味を持っています。不思議に思えるのは、「枕草子」「源氏物語」といった平安時代の女流の書き物は、明治以降の日本文学よりも、ずっと英国文学に似かよって見えることです。外面描写による人物像への関心の高さ、真面目一辺倒でなくどこか皮肉なユーモアを滲ませるところなど、英国人の嗜好に合致する気がしてなりません。
平安時代の女房たちが、同じくらい意地悪な目を持つ人々だったということですかね。それもまた、千年前の彼女たちがいとしく思えるところです。
- 『腐れ縁』 最東対地
 - 『九本指』 山吹静吽
 - 『忘れられた犯人』 阿津川辰海
 - 『ささやき』 木犀あこ
 - 『普通と各停って、違うんですか』 山本巧次
 - 『雨の日の探偵』 階 知彦
 - 『神々の計らいか?』 吉田恭教
 - 『虫』 結城充考
 - 『監禁が多すぎる』 白井智之
 - 『チョコレートを嫌いになる方法』 辻堂ゆめ
 - 『銀河鉄道で行こう!』 豊田巧
 - 『方向指示器』 小林泰三
 - 『庭をまもるもの』 須賀しのぶ
 - 『寅さんの足はなぜ光る』 柴田勝家
 - 『脱走者の行方』 黒岩 勉
 - 『日常の謎の作り方』 坂木 司
 - 『味のないコーラ』 住野よる
 - 『鍵のゆくえ』 瀬川コウ
 - 『彼らはなぜモテるのだろうか……』 市川哲也
 - 『やみのいろ』 中里友香
 - 『インデックス化と見ない最終回』 十市 社
 - 『文系人間が思うロボットの不思議』 沢村浩輔
 - 『街道と犬ども』 石川博品
 - 『沖縄のてーげーな日常』 友井 羊
 - 『ジャンルという名の妖怪たち』 ゆずはらとしゆき
 - 『カロリー表示は私を健康に導くのか』 秋川滝美
 - 『終電を止める女』 芦沢 央
 - 『女子クラスにおける日常の謎』 櫛木理宇
 - 『IBSと遅刻癖』 岡崎琢磨
 - 『シューズ&ジュース』 青崎有吾
 - 『キャラが立つとは?』 東川篤哉
 - 『「源氏物語」のサブカルな顔』 荻原規子
 - 『そこにだけはないはずの』 似鳥 鶏
 - 『『美少女』に関する一考察』 加賀美雅之
 - 『食堂Kの謎』 葉真中顕
 - 『寒い夏』 ほしおさなえ
 - 『人喰い映画館』 浦賀和宏
 - 『あやかしなこと』 平山夢明
 - 『あなたの庭はどんな庭?』 日明 恩
 - 『日常の謎がない謎』 小松エメル
 - 『影の支配者』 小島達矢
 - 『「五×二十」』 谷川 流
 - 『グレープフルーツとお稲荷さん』 阿部智里
 - 『ボールペンを買う女』 大山誠一郎
 - 『日常の謎の謎』 辻真先
 - 『『サイバー空間におけるデータ同定問題』あるいはネット犯罪量産時代』 一田和樹
 - 『囲いの中の日常』 門前典之
 - 『カレーライスを注文した男』 岸田るり子
 - 『お前は誰だ?』 丸山天寿
 - 『世界を見誤る私たち』 穂高 明
 - 『名探偵は日常の謎に敵うのかしら?』 相沢沙呼
 - 『で、あなた何ができるの?はあ、皇帝だったらたぶん…』 秋梨惟喬
 - 『すっぽんぽんでいこう!』 桜木紫乃
 - 『右腕の長い男』 麻見和史
 - 『坂道の上の海』 七河迦南
 - 『彼女は地下鉄でノリノリだった、という話。』 柴村仁
 - 『その日常で大丈夫か?』 汀こるもの
 - 『成功率百パーセントのダイエット』 小前亮
 - 『謎の赤ん坊』 蒲原二郎
 - 『一般人の愚痴と疑問』 沼田まほかる
 - 『寄る怪と逃げる怪』 高田侑
 - 『福の神』 木下半太
 - 『マッドサイエンティストへの恋文』 森深紅
 - 『私の赤い文字』 大山尚利
 - 『となりあわせの君とリセット』 詠坂雄二
 - 『美人はなぜ美人なのか』 小川一水
 - 『なぜモノがあるのか。』 鈴木光司
 - 『この目で見たんだ』 北村薫
 - 『運命の糸が赤いのは?』 山下貴光
 - 『念力おばさん』 湊かなえ
 - 『方向オンチはなぜ迷う?』 山本弘
 - 『ゆがむ顔のカルマ』 真藤順丈
 - 『子供だけが知っている』 宇佐美まこと
 - 『人はなぜ、酒を飲むのか』 薬丸岳
 







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