講談社BOOK倶楽部

『そこにだけはないはずの』似鳥 鶏|日常の謎|webメフィスト
webメフィスト
講談社ノベルス

日常の謎

そこにだけはないはずの

似鳥 鶏(にたどりけい)

「ちょっとそこに」置いたものを取り忘れて出ていってしまう、ということをよくやります。傘を持って牛丼屋に入ると、食べて出る時にはもう店内に傘を忘れています。牛丼屋に入って腕時計を外すと、丼の隣に腕時計を置いたまま出てきます。出版社のパーティーに伺うと手提げ袋に入った本をいただけることが多いのですが、帰りに牛丼屋に寄ると、もう席の足下に手提げ袋を忘れて出てきます。

 これは一体何なんでしょうか。私の脳の一部に損傷があるのでしょうか。それとも私がグータラ生きているせいで、傘や腕時計が愛想を尽かして出ていってしまうのでしょうか。でなければ牛丼屋が何か関係しているのでしょうか。でも、この間は仕事をしていたドトールでも傘を置き忘れました。もしかして、ドトールは来月あたりから新メニューとして牛丼を始めるのでしょうか。

 大抵の場合、牛丼屋やドトールの店員さんが親切に忘れ物を保管してくれているので、あとで慌てて取りにいけば大丈夫です。しかし大学在学中、トイレに財布を置き忘れた時は大変でした。

 雑誌の性質上、ここからミステリになります。

 その日、私は三時限目が始まる前の休み時間に法学部棟三階のトイレに行ったのですが、用を足して手を洗う間、なぜか財布をポケットから出して洗面台の上に置き、手を洗ったらそのまま出てきてしまったのでした。授業が始まって五分ほどしたところで財布を置いたままであることに気付き、慌ててトイレに戻ったのですが、もう財布はありませんでした。人の多いトイレだったので、これはもう私がすっとこどっこいだったと言うほかはありません。

 ああ、またやった、山野楽器のスタンプカードがもう少しだったのに、と大層落ち込んだのですが、授業後に法学部棟の学生課に行ってみたら財布は届いていました。法学部棟三階のトイレで拾ったから、という学生が届けてくれたらしいのですが、その人は特に名乗りもせず、学生課側も名前を尋ねなかったため、誰だか分からない、ということです。

 ところが、運がよかったなあと思いながら財布を開けると、カード類こそそのままで、心配だった山野楽器のスタンプも減っていないものの(減っていたらびっくりですが)、八千円ほど入っていた紙幣が抜かれて千円になっていたのでした。

 私はそれを見て思いました。

 犯人は届けてきたそいつじゃないのか。

 どうも、状況からしてそうとしか考えられないのです。よかったわねえとか気をつけなさいねとか言っている学生課のおばちゃんに頭を下げながら、私はずっと釈然としないままでした。

 なぜかというと。

 犯人が財布から紙幣だけを抜き、しかも千円だけ残しておいた、というのはつまり、自分は金さえ貰えればいいのであってそれ以上に持ち主を困らせるつもりはないのだ、ということでしょう。犯人がそうすることで「俺はまだ優しい方だからな」などと悦に入っているところを想像すると七年殺しを食らわせたくなりますが、そのことだけをもって「だから届けにきたのも犯人自身だろう」と決めつけるつもりはありません。

 一番の問題は「財布から千円を残して現金だけが抜かれていた」のに、届けにきたという学生が、私が置き忘れたまさにその場所(法学部棟三階のトイレ)で「拾った」と言っていた点です。これは犯行を自白しているに等しいのでは?

 もし犯人と「届けてくれた学生」(仮に松方君とします)が別人だとすれば、犯人が財布の中身を盗った後も、財布はそのまま法学部棟三階のトイレにあり、松方君がそれを見つけて届けてくれた、ということになります。

 しかし、そんなことがあるのでしょうか。もしそうだとするなら、犯人は洗面台の上に置き忘れられている財布を見つけ、「その場で中を開いて、千円札一枚だけを残して紙幣を全部抜き、またそのあたりに置いていった」ということになってしまいます。しかし現場は人の多いトイレで、いつ誰が入ってくるか分からないのです。人目につきやすい場所で、犯人がわざわざ拾った財布を開いて中を調べ、千円だけ残して金を抜いて戻す、などという危険なことをするものでしょうか。持ち主である私だっていつ戻ってくるか分からないのですから、犯人は現場からは一秒でも早く離れたいと思うのが自然ではないでしょうか。それなら財布ごとさっと盗ってトイレを出て、どこかで中身を抜いてから学生課に届ける、という方がよほど安全なのではないでしょうか。当然、一度は財布ごと盗った犯人が、どこかで中身を抜いた後、また元のトイレに置きにきた、などということも考えられません。財布を私の手に戻したいなら学生課に行けばいいわけで、わざわざそんな余計な危険を冒す理由がないのです。

 だとすれば犯人は松方自身であり、松方は財布を届けた際、おばちゃんに「どこで拾ったの?」と訊かれ、咄嗟に「法学部棟三階のトイレ」と答えてしまったのではないでしょうか。

 と思ったので、私は学生課のおばちゃんに言いました。「犯人は松方です!」

 おばちゃんは「そういうふうに考える持ち主が多くてトラブルになるから、届けた人の名前は訊かないようにしている」と答えました。私は謎の敗北感に打ちひしがれながらすごすご帰りました。

 以来、持ち物はなるべくポケットなり鞄なりの定位置から出さないようにし、牛丼屋にもほどほどにしか行かないようにしたため、傘や腕時計を置き忘れることは減りました。

 もちろん「減った」だけなので、今でもけっこう置き忘れます。そういう時はこっそり呟きます。
「怪盗松方がまた現れたか」

Backnumber

My Precious講談社ノベルス 立ち読みメフィスト あとがきのあとがき 日常の謎
メフィスト賞とは?