葉真中顕(はまなかあき)
「今日は何食べたの?」
わたしが尋ねると、Nくんは「中華丼」と答えた。
「どうだった?」
「やっぱり不味かった」
「そうか、やっぱり不味かったか。なあ、もう十分だろ。そろそろやめたらどうだい?」
「いや、もう半分は越えたんだ。ここまできたら、最後までやりきるよ。おれは案外オムライス辺りに希望があると思う」
学生時代の思い出だから、今から二十年近くも前のことだ。友人のNくんが無謀とも言える挑戦をしていた。
わたしたちの通う大学のすぐ近くに「K」という食堂があった。メニューが豊富で、ラーメン、焼肉定食、ピラフと和洋中問わず何でも出す大衆的なお店だ。年季の入った店内には、L字型のカウンターと、テーブル席が二つ。
「いらっしゃい」も言わない無愛想なオジサンとオバサンの二人だけで切り盛りしていた。
この食堂Kには一点、重大な問題があった。―不味い、のである。
わたしとNくんが、はじめてKを訪れたのは入学してすぐのことだ。他の新入生たちとともに学部の先輩に連れて行かれた。
「うちの大学に入ったら、まずここで飯を食わなきゃ」と言う先輩がなぜ半笑いだったのかは、すぐに分かった。
このときわたしが注文したのは麻婆豆腐だったが、それを口にした途端、それまでの十八年で培ってきた麻婆豆腐の概念がガラガラと崩れ落ちる音を聞いた。タレは甘過ぎ、豆腐はぱさぱさ、挽肉はぼそぼそで、なぜか大量に投入されているニンジンの自己主張が強すぎる。味の不協和音がすごい。ひとことで言えば、不味いのだ。
先輩から「これも食ってみ?」と言われて、餃子を一個渡された。
恐る恐る口に入れてみたら……やはり不味い。餃子も不味い。
わたしとNくんは、互いに注文していた麻婆豆腐と焼肉定食を一口ずつトレードしてみて、思わず顔を見合わせた。
ああ、なんてこった、焼肉も不味い。全部、不味い。
衝撃的だった。
日本の飲食店のレベルは、極めて高い。ミシュランの星を獲りまくっている高級店のみならず、ファストフードにしろ、町のラーメン屋にしろ、大抵は値段なりかそれ以上のものが出てくる。
この国では「金を払って不味いものを食う」ことがほとんどないのだ。
それなのに、この店はどうなってるんだ?
先輩によれば「Kは何を食っても不味い」というのが学生の間でのコンセンサスであり、新入生が入ったら、一度は連れて行くことになっているというのだ。無論、わたしも翌年から半笑いで新入生をKに連れて行くようになった。
それにしても、「味」という主観的なことにおいて、誰が行っても何を食べても不味い、というのは考えてみればすごいことではないだろうか。
わたしたちは「逆にすごい」という、よく分からない評価軸でKを愛するようになり、ときどき訪れては、「やっぱり不味かったねー」などとヘラヘラ笑っていた。
しかし、優秀な理科系の学生だったNくんは、いつからか、そんな温い風潮に異を唱えるようになった。
「確かに、これまで食べたものは全部不味かった。しかし、だ。例えば黒い羊しか見たことがないからといって、全ての羊が黒いとは言い切れない。本当は白い羊もいるのに、たまたま黒い羊にしか出会っていないだけかもしれないじゃないか。Kのメニューは膨大な種類があり、おれたちはその全部を食べたわけではない。もしかしたら、この中には美味しいメニューがあるかもしれない。Kを『何を食っても不味い』と評価するなら、全メニューを食べるべきだ」と、分かるような分からぬようなことを言い、仕舞いには、「おれがやろう。おれはKの全メニューを制覇する!」などと、海賊王になる的なノリでとんでもないことを言い出した。
仲間たちは、早まるな、悩み事があるなら聞くぞ、ソープに行け、などと説得を試みたが、彼の情熱を押しとどめることは誰にもできなかった。たぶん春のせいである。
こうしてNくんは、毎日のようにKに通い、メニューを端から順番に食べてゆくようになった。
冒頭のようなやりとりがあったのはそういうわけだ。なお、Nくんが希望を託したオムライスもやはり不味かったそうである。
白い羊こと美味いメニューが見つからぬまま、Nくんの挑戦は終盤を迎える。いよいよ残り十種を切って終わりが見えてきた頃、思いがけないことが起きた。
Nくんは真っ青な顔で言った。
「大変なことになった」
「どうした?」
「Kのオヤジにどうも顔を覚えられたらしい」
そりゃそうである。なんせ、Kは不味いのだ。繁盛などしていない。毎日のように通い詰めれば、目立つだろう。
「何か言われたのかい?」
「いや、何も言われない。オヤジはいつものように無愛想でずっと黙っている。ただ……」
「ただ?」
「毎回、頼んでもない餃子が三個つくようになった」
終盤に来て、まさかの試練である。いや、たぶんサービスなんだろうけど。
しかしそんな逆境にも負けず、Nくんは全メニュー制覇を成し遂げ、高らかに宣言したのである。
「何を食っても不味い!」
- 『腐れ縁』 最東対地
- 『九本指』 山吹静吽
- 『忘れられた犯人』 阿津川辰海
- 『ささやき』 木犀あこ
- 『普通と各停って、違うんですか』 山本巧次
- 『雨の日の探偵』 階 知彦
- 『神々の計らいか?』 吉田恭教
- 『虫』 結城充考
- 『監禁が多すぎる』 白井智之
- 『チョコレートを嫌いになる方法』 辻堂ゆめ
- 『銀河鉄道で行こう!』 豊田巧
- 『方向指示器』 小林泰三
- 『庭をまもるもの』 須賀しのぶ
- 『寅さんの足はなぜ光る』 柴田勝家
- 『脱走者の行方』 黒岩 勉
- 『日常の謎の作り方』 坂木 司
- 『味のないコーラ』 住野よる
- 『鍵のゆくえ』 瀬川コウ
- 『彼らはなぜモテるのだろうか……』 市川哲也
- 『やみのいろ』 中里友香
- 『インデックス化と見ない最終回』 十市 社
- 『文系人間が思うロボットの不思議』 沢村浩輔
- 『街道と犬ども』 石川博品
- 『沖縄のてーげーな日常』 友井 羊
- 『ジャンルという名の妖怪たち』 ゆずはらとしゆき
- 『カロリー表示は私を健康に導くのか』 秋川滝美
- 『終電を止める女』 芦沢 央
- 『女子クラスにおける日常の謎』 櫛木理宇
- 『IBSと遅刻癖』 岡崎琢磨
- 『シューズ&ジュース』 青崎有吾
- 『キャラが立つとは?』 東川篤哉
- 『「源氏物語」のサブカルな顔』 荻原規子
- 『そこにだけはないはずの』 似鳥 鶏
- 『『美少女』に関する一考察』 加賀美雅之
- 『食堂Kの謎』 葉真中顕
- 『寒い夏』 ほしおさなえ
- 『人喰い映画館』 浦賀和宏
- 『あやかしなこと』 平山夢明
- 『あなたの庭はどんな庭?』 日明 恩
- 『日常の謎がない謎』 小松エメル
- 『影の支配者』 小島達矢
- 『「五×二十」』 谷川 流
- 『グレープフルーツとお稲荷さん』 阿部智里
- 『ボールペンを買う女』 大山誠一郎
- 『日常の謎の謎』 辻真先
- 『『サイバー空間におけるデータ同定問題』あるいはネット犯罪量産時代』 一田和樹
- 『囲いの中の日常』 門前典之
- 『カレーライスを注文した男』 岸田るり子
- 『お前は誰だ?』 丸山天寿
- 『世界を見誤る私たち』 穂高 明
- 『名探偵は日常の謎に敵うのかしら?』 相沢沙呼
- 『で、あなた何ができるの?はあ、皇帝だったらたぶん…』 秋梨惟喬
- 『すっぽんぽんでいこう!』 桜木紫乃
- 『右腕の長い男』 麻見和史
- 『坂道の上の海』 七河迦南
- 『彼女は地下鉄でノリノリだった、という話。』 柴村仁
- 『その日常で大丈夫か?』 汀こるもの
- 『成功率百パーセントのダイエット』 小前亮
- 『謎の赤ん坊』 蒲原二郎
- 『一般人の愚痴と疑問』 沼田まほかる
- 『寄る怪と逃げる怪』 高田侑
- 『福の神』 木下半太
- 『マッドサイエンティストへの恋文』 森深紅
- 『私の赤い文字』 大山尚利
- 『となりあわせの君とリセット』 詠坂雄二
- 『美人はなぜ美人なのか』 小川一水
- 『なぜモノがあるのか。』 鈴木光司
- 『この目で見たんだ』 北村薫
- 『運命の糸が赤いのは?』 山下貴光
- 『念力おばさん』 湊かなえ
- 『方向オンチはなぜ迷う?』 山本弘
- 『ゆがむ顔のカルマ』 真藤順丈
- 『子供だけが知っている』 宇佐美まこと
- 『人はなぜ、酒を飲むのか』 薬丸岳