岡崎琢磨(おかざきたくま)
その日も僕は、半泣きになりながら地下鉄に揺られていた。
雑誌の取材を受けるため、喫茶店に向かう途中だった。約束の午後三時までは残り十分を切っている―だが、そんなことはもはや問題ではなかった。何せ、僕がいま乗っている電車が喫茶店の最寄り駅に到着するのが、予定ではちょうど午後三時なのだ。最寄り駅から喫茶店までは徒歩三分という距離である。つまり、どうあがいても間に合わない。
もういいさ、仕方ない。僕は座席にて肩を落としながら、自分で自分をなぐさめる。だって今日もまた例のアレがやってきて、そのせいで電車を一本逃してしまったのだから。そりゃ先方の印象は悪くなるだろうが、いまさらそんなことを気にしても始まらない。だってもう、遅刻は確定したんだ──。
待てよ。ふと、ある策が頭に浮かぶ。そうか、その手があったか。これなら何とか、約束の時間までに到着できる!
まさに起死回生、妙案をひらめいた僕は、時間どおりに目的の喫茶店に到着することができた。補足すると、地下鉄はすべて各駅停車でダイヤに乱れもなかった。加えて、交通手段は電車と自分の両脚のみとする。さて、僕がいったいどんな手を使ったのかおわかりだろうか?
──僕には遅刻癖がある。悪癖なのは言うまでもないし、人として恥ずかしいことだと心から思っているのだが、あくまでも事実なのでここに白状する。
ただ、遅刻と言っても五分とか、せいぜい十分くらいであることがほとんどだ。だからと言って遅刻であることに変わりはなく、開き直るつもりは毛頭ない。しかしこの五分という決まった時間に、少なくとも僕にとっては切実な事情が秘められていることを少し弁明させていただきたい。
例のアレとは、腹痛である。人と会う約束があるとき、仕事にしろプライベートにしろ、家を出る時間が近づくとかなりの確率で襲ってくる。僕はそういう病気の持ち主なのだ。
IBS。日本語に直すと、過敏性腸症候群という。緊張やストレスなどによって腸が過剰に活動してしまい、腹痛を引き起こす。新たな環境に身を置くことの多い、二十代から四十代の人が特にかかりやすい病気だと言われている。
僕の作家活動の始まりは、IBSとの闘いの幕開けでもあった。そもそも症状を自覚し始めたのが、やはり大学を卒業して間もない二十三歳ごろのことだったが、当時は人と会う直前にトイレに行く回数が増えるという程度の軽い症状で済んでいた。ところが、作家になることを目指して投稿した作品が新人賞の選考に残るようになると、症状は目に見えて悪化した。自分の著書が書店に並ぶことを想像するだけで、腹痛をもよおすようになったのである。
もっとも僕の場合、緊張は何かことが起こる直前がピークで、たとえば人と会う前に緊張していても、会ってしまえば症状が治まることが多かった。デビューが決まり、初めて出版社へあいさつに行ったときも、当日の朝はひどい腹痛に見舞われたが、その日の晩は友人と酒を飲めるほどに回復していたことを憶えている。
とはいえプロの作家としての活動は、僕の覚悟をはるかに上回る緊張を強いてきた。デビューが決まったのが二〇一一年の秋。それから一年ほどは頻繁に腸炎を患い、体重は最大で五キロも落ちた。出先の飲食店で、数口飲み食いしただけで激しいめまいに襲われ、何も口にできなくなることもしばしばだった。翌年の六月には毎朝の下痢がひと月以上も治まらず、とうとうIBSのための投薬治療に踏み切った。しばらくは調子がよかったものの、しだいに薬が効かなくなり、一年が経過したいまでは病状も新たな段階に差しかかりつつある。元々根治するのが難しい病気で、目下、症状の緩和を目指して新たな手段を日々模索中である。
家を出る前に腹痛が起きるというのは、IBSの典型的な症状だ。遅刻癖に対して「五分遅れるなら五分早めに準備しろ」という意見を時折耳にするが、僕にとってこれは解決にならない。トイレに駆け込む回数が増えるだけで、結局家を出る時間は変わらないからだ。さすがに三十分や一時間も早めれば家を出るのは間に合うが、すると待ち合わせ場所付近の公衆トイレで約束の時間までうなり続けることになるだけである。
万事においてこのような調子なので、遅刻癖はなかなか直らない。けれども僕も好きで遅刻しているわけではない。ほとんど不可能に思えたとしても、何とか間に合う方法はないかとぎりぎりまで考えていたりもするのだ。
そこで冒頭の話に戻る。約束の午後三時に目的地の最寄り駅に到着する電車に乗っている僕。いかにして、時間に間に合ったのか。勘の鋭い方なら、すぐにピンときたかもしれない。
実は、喫茶店は最寄り駅とそのひとつ前の駅のあいだにあった。僕はひとつ前の駅で降り、そこから走ったのである。
細かい数字は事実と異なるが、最寄り駅とひとつ前の駅とのあいだの所要時間を五分、さらにひとつ前の駅から喫茶店までを徒歩十分とする。最寄り駅から喫茶店までは徒歩三分だから、普通に歩けば最寄り駅を経由したほうが、ひと駅の所要時間プラス徒歩で計八分となり早い。が、ひとつ前の駅で降りて徒歩十分のところを五分で走れば、電車が最寄り駅に到着するころには喫茶店の戸を叩ける計算になるのである。
こうして僕は、上がった息を整えつつ喫茶店に入った……のだが、こんなときに限って先方が五分以上遅刻してきた。普段の自分がこのありさまなので、むろん怒りはしない。ただ、せっかくのファインプレーが水泡に帰したことに虚しさを覚えながらの取材となった。
- 『腐れ縁』 最東対地
- 『九本指』 山吹静吽
- 『忘れられた犯人』 阿津川辰海
- 『ささやき』 木犀あこ
- 『普通と各停って、違うんですか』 山本巧次
- 『雨の日の探偵』 階 知彦
- 『神々の計らいか?』 吉田恭教
- 『虫』 結城充考
- 『監禁が多すぎる』 白井智之
- 『チョコレートを嫌いになる方法』 辻堂ゆめ
- 『銀河鉄道で行こう!』 豊田巧
- 『方向指示器』 小林泰三
- 『庭をまもるもの』 須賀しのぶ
- 『寅さんの足はなぜ光る』 柴田勝家
- 『脱走者の行方』 黒岩 勉
- 『日常の謎の作り方』 坂木 司
- 『味のないコーラ』 住野よる
- 『鍵のゆくえ』 瀬川コウ
- 『彼らはなぜモテるのだろうか……』 市川哲也
- 『やみのいろ』 中里友香
- 『インデックス化と見ない最終回』 十市 社
- 『文系人間が思うロボットの不思議』 沢村浩輔
- 『街道と犬ども』 石川博品
- 『沖縄のてーげーな日常』 友井 羊
- 『ジャンルという名の妖怪たち』 ゆずはらとしゆき
- 『カロリー表示は私を健康に導くのか』 秋川滝美
- 『終電を止める女』 芦沢 央
- 『女子クラスにおける日常の謎』 櫛木理宇
- 『IBSと遅刻癖』 岡崎琢磨
- 『シューズ&ジュース』 青崎有吾
- 『キャラが立つとは?』 東川篤哉
- 『「源氏物語」のサブカルな顔』 荻原規子
- 『そこにだけはないはずの』 似鳥 鶏
- 『『美少女』に関する一考察』 加賀美雅之
- 『食堂Kの謎』 葉真中顕
- 『寒い夏』 ほしおさなえ
- 『人喰い映画館』 浦賀和宏
- 『あやかしなこと』 平山夢明
- 『あなたの庭はどんな庭?』 日明 恩
- 『日常の謎がない謎』 小松エメル
- 『影の支配者』 小島達矢
- 『「五×二十」』 谷川 流
- 『グレープフルーツとお稲荷さん』 阿部智里
- 『ボールペンを買う女』 大山誠一郎
- 『日常の謎の謎』 辻真先
- 『『サイバー空間におけるデータ同定問題』あるいはネット犯罪量産時代』 一田和樹
- 『囲いの中の日常』 門前典之
- 『カレーライスを注文した男』 岸田るり子
- 『お前は誰だ?』 丸山天寿
- 『世界を見誤る私たち』 穂高 明
- 『名探偵は日常の謎に敵うのかしら?』 相沢沙呼
- 『で、あなた何ができるの?はあ、皇帝だったらたぶん…』 秋梨惟喬
- 『すっぽんぽんでいこう!』 桜木紫乃
- 『右腕の長い男』 麻見和史
- 『坂道の上の海』 七河迦南
- 『彼女は地下鉄でノリノリだった、という話。』 柴村仁
- 『その日常で大丈夫か?』 汀こるもの
- 『成功率百パーセントのダイエット』 小前亮
- 『謎の赤ん坊』 蒲原二郎
- 『一般人の愚痴と疑問』 沼田まほかる
- 『寄る怪と逃げる怪』 高田侑
- 『福の神』 木下半太
- 『マッドサイエンティストへの恋文』 森深紅
- 『私の赤い文字』 大山尚利
- 『となりあわせの君とリセット』 詠坂雄二
- 『美人はなぜ美人なのか』 小川一水
- 『なぜモノがあるのか。』 鈴木光司
- 『この目で見たんだ』 北村薫
- 『運命の糸が赤いのは?』 山下貴光
- 『念力おばさん』 湊かなえ
- 『方向オンチはなぜ迷う?』 山本弘
- 『ゆがむ顔のカルマ』 真藤順丈
- 『子供だけが知っている』 宇佐美まこと
- 『人はなぜ、酒を飲むのか』 薬丸岳