ほしおさなえ
今年の夏はとにかく寒さに悩まされた。別に外国とか高山に行ったわけではない。東京の家にいて、寒かったのだ。
ことの起こりは五月だった。二歳の娘が気管支炎になり、高熱で入院した。わたしも付き添って病院に泊まり込んだのだが、このとき同じ菌に感染したらしい。喉が痛くなり、声が出なくなった。
娘は完治して一週間後退院した。わたしの風邪もそのころにはほとんど治っていた。少し咳が残っているくらいだったのだ。ところが、そのあと外出し、外で長時間過ごしたのがよくなかったらしい。咳がどんどんひどくなり、喘息のような音が出るようになってしまった。病院で薬をもらって咳は治まったものの、その後もどうも調子が悪い。ちょっと出かけたりすると、すぐに熱と咳が出る。
実は、入院の少し前に娘が保育園に入園し、ようやく自分の時間が持てるようになったところだった。長らく「野性時代」に載せていた連作の小説も完結し、一息ついて身体にガタが来た、ということなのかもしれない、と思った。
だんだん暑くなり、家でも外の建物でも冷房がきくようになると、それが寒くてたまらなくなった。涼しいのではない。寒いのだ。手足が冷えるということは以前もあった。だが、今回はそうではなく、身体全体がきーんと冷える。悪寒が走り、頭痛がする。放っておくと喉が痛くなり、熱が出てしまう。去年までは冷房なんて平気だったのに。夜、冷房をかけたまま寝てしまっても大丈夫だったのに。それに夏はノースリーブで、裸足にサンダルで過ごしていたのに。今年は半袖でも寒い。常に重ね着して、裸足なんてとんでもなく、いつもハイソックス(ソックスでは寒いのだ)を穿いていないとダメだった。といっても、身体を動かせば汗がどっと出る。汗で服が濡れる。そこに冷房の風が当たると、痛いほど寒い。建物にはいっても電車に乗っても冷房はかかっている。だんだん出かけること自体怖くなり、常に着替え(羽織るものではなく、いちばん下に着るものからすべて)を持って歩く羽目になった。部屋で執筆しているときは、ほとんど冷房をつけなかった。
だが、夫は暑がりで、がんがん冷房をかけている。文筆業だから家にいることが多く、仕事中はお互い自分の部屋にこもっているからよいが、いっしょにいると問題が起こるようになった。とくにまずいのは、娘が保育園に行っていて留守の昼食どき。
世間的には暑いのだろう、と思って冷房をつける。厚手の上着を着込まなければならなくなる。それでも寒い。除湿にしてくれ、と頼む。夫はとりあえず寛容に承知してくれる。異星人といっしょにいるようだ、などと冗談まじりに言う。だが、しばらくたつと、我慢も限界になるのか、これはさすがに暑すぎるんじゃないか、と言い出す。常識的に考えておかしい、三十五度もあるんだぞ、世間一般では冷房をつけるのがふつうだろう、と。わたしだって自分がおかしいことぐらいわかっている。わかっているどころか、むしろ悩んでいる。なんでこんなことに、と思う。たしかに以前から暑さには強い方で、冷房なしで過ごすことも多かった。だが、だからといって冷房が嫌いだったわけじゃない。なくても大丈夫だっただけだ。だが今は嫌い……というか、怖い。夫は精神論というか根性というか、エコとか主義主張の問題といっしょにしているのかもしれないが、そういうんじゃない。ほんとうに寒いのだ。健康を害してしまうのだ。そんなこと言うなら、暑さだって健康に悪い、家のなかで熱中症になって死ぬ人だっているんだぞ、と言い返される。その通りだ。何度も言うが、自分の方がおかしいということくらいわたし自身わかっている。でも寒いのだ。だいたい、なぜ常識とかふつうとか言うんだろう。ここにはふたりしか人がいなくて、異常だろうがなんだろうが、そのうちのひとりが寒いと言っているのだ。世間一般を味方につけることになんの意味があるのか。それに、たしかに夫はわたしより社会性もあるし社会的に認められてもいるが、決して常識的というタイプではない。段ボールや古新聞を束ねて縛ることもできないじゃないか。なのになぜ常識とか、ふつうとかいう言葉を盾にするのか。そもそも、自分だって世間一般からずれているくせに、自分の言っていることがいかに世間一般的に見て妥当か、ということにこだわりがちな男なのだ。しかも引かないのだ。たとえば、一般的にシソは匂いが強すぎる、とか。日本では、あれをいい香りだと思っている人の方がふつうだろう。自分が嫌いなら、嫌いだとだけ言えばいいじゃないか。わたしも強情なところはある。反省はしよう。だが、今はとにかく寒い。夫はまだ自分の意見の妥当性にこだわり続けている。わけのわからない怒りでいっぱいになり、ほんのり憎しみのようなものさえ芽生えてくる。
という夏をなんとかやり過ごし、涼しくなったころ、家族で山に遊びに出かけた。夜、夫は寒いと言ったが、わたしは寒さを感じなかった。つまり冷房の風だけに敏感になっていたらしい。
寒さというのはなんなのか。母は血流の問題だと言う。なんでも、冷えというのはすごくポピュラーな悩みらしく、冷え解消グッズも巷にあふれているようだ。秋になって冷房がなくなるとようやく寒くなくなったが、それもつかのま、今度は冬がやってくる。なにかの菌がまだ身体に残っているんじゃないか、と不安になったり、温度を感じるセンサーがいかれてるだけかも、と思ったり、なにが原因かはわからないままだが、病院に行くのも面倒だし、とりあえず母が送ってくれた漢方薬を毎日飲んでいる。どろっとした黒い液体でなんだか不気味だが、飲んだあと身体がぽっと暖まるので、まあ、こんなもんか、と思っている。
- 『腐れ縁』 最東対地
- 『九本指』 山吹静吽
- 『忘れられた犯人』 阿津川辰海
- 『ささやき』 木犀あこ
- 『普通と各停って、違うんですか』 山本巧次
- 『雨の日の探偵』 階 知彦
- 『神々の計らいか?』 吉田恭教
- 『虫』 結城充考
- 『監禁が多すぎる』 白井智之
- 『チョコレートを嫌いになる方法』 辻堂ゆめ
- 『銀河鉄道で行こう!』 豊田巧
- 『方向指示器』 小林泰三
- 『庭をまもるもの』 須賀しのぶ
- 『寅さんの足はなぜ光る』 柴田勝家
- 『脱走者の行方』 黒岩 勉
- 『日常の謎の作り方』 坂木 司
- 『味のないコーラ』 住野よる
- 『鍵のゆくえ』 瀬川コウ
- 『彼らはなぜモテるのだろうか……』 市川哲也
- 『やみのいろ』 中里友香
- 『インデックス化と見ない最終回』 十市 社
- 『文系人間が思うロボットの不思議』 沢村浩輔
- 『街道と犬ども』 石川博品
- 『沖縄のてーげーな日常』 友井 羊
- 『ジャンルという名の妖怪たち』 ゆずはらとしゆき
- 『カロリー表示は私を健康に導くのか』 秋川滝美
- 『終電を止める女』 芦沢 央
- 『女子クラスにおける日常の謎』 櫛木理宇
- 『IBSと遅刻癖』 岡崎琢磨
- 『シューズ&ジュース』 青崎有吾
- 『キャラが立つとは?』 東川篤哉
- 『「源氏物語」のサブカルな顔』 荻原規子
- 『そこにだけはないはずの』 似鳥 鶏
- 『『美少女』に関する一考察』 加賀美雅之
- 『食堂Kの謎』 葉真中顕
- 『寒い夏』 ほしおさなえ
- 『人喰い映画館』 浦賀和宏
- 『あやかしなこと』 平山夢明
- 『あなたの庭はどんな庭?』 日明 恩
- 『日常の謎がない謎』 小松エメル
- 『影の支配者』 小島達矢
- 『「五×二十」』 谷川 流
- 『グレープフルーツとお稲荷さん』 阿部智里
- 『ボールペンを買う女』 大山誠一郎
- 『日常の謎の謎』 辻真先
- 『『サイバー空間におけるデータ同定問題』あるいはネット犯罪量産時代』 一田和樹
- 『囲いの中の日常』 門前典之
- 『カレーライスを注文した男』 岸田るり子
- 『お前は誰だ?』 丸山天寿
- 『世界を見誤る私たち』 穂高 明
- 『名探偵は日常の謎に敵うのかしら?』 相沢沙呼
- 『で、あなた何ができるの?はあ、皇帝だったらたぶん…』 秋梨惟喬
- 『すっぽんぽんでいこう!』 桜木紫乃
- 『右腕の長い男』 麻見和史
- 『坂道の上の海』 七河迦南
- 『彼女は地下鉄でノリノリだった、という話。』 柴村仁
- 『その日常で大丈夫か?』 汀こるもの
- 『成功率百パーセントのダイエット』 小前亮
- 『謎の赤ん坊』 蒲原二郎
- 『一般人の愚痴と疑問』 沼田まほかる
- 『寄る怪と逃げる怪』 高田侑
- 『福の神』 木下半太
- 『マッドサイエンティストへの恋文』 森深紅
- 『私の赤い文字』 大山尚利
- 『となりあわせの君とリセット』 詠坂雄二
- 『美人はなぜ美人なのか』 小川一水
- 『なぜモノがあるのか。』 鈴木光司
- 『この目で見たんだ』 北村薫
- 『運命の糸が赤いのは?』 山下貴光
- 『念力おばさん』 湊かなえ
- 『方向オンチはなぜ迷う?』 山本弘
- 『ゆがむ顔のカルマ』 真藤順丈
- 『子供だけが知っている』 宇佐美まこと
- 『人はなぜ、酒を飲むのか』 薬丸岳