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『『サイバー空間におけるデータ同定問題』あるいはネット犯罪量産時』一田和樹|日常の謎|webメフィスト
webメフィスト
講談社ノベルス

日常の謎

『サイバー空間におけるデータ同定問題』
あるいはネット犯罪量産時

一田和樹(いちだかずき)

 人間というのは目の前の些細な変化にはすぐに気づきますが、日常がゆっくりと変容してゆくことには気づかないものです。もはや戻れないところまで進んでから、その変化に気づくことも少なくありません。ネットの普及がもたらした変化は、まさしくそれでした。

 身近なところから常識は変容し、その変化は加速しています。当然のことながら、犯罪のあり方も変わってきています。子供が最初に手を染める犯罪といえば昔は万引きでしたが、もうすぐソーシャルゲームで他人の電子マネーをだまし取る方が一般的になるでしょう。『昔万引き、今ネット詐欺』と言われる所以です。ネットでは毎日事件が発生し、米国はサイバー空間を第5の戦場と宣言しました。いつの間にか私たちはブレードランナーや攻殻機動隊のいる未来に立っています、たいした自覚も準備もないままに。

 変化の中で新しい問題がたくさん生まれてきました。その中のひとつ、『サイバー空間におけるデータ同定問題』をご紹介します。

 これは、デジタルデータは複製可能で出所を特定することが困難であることから生まれたさまざまな問題の総称です。以前は『サイバー空間における無犯罪証明』と呼ばれていました。

 全く同じ個人情報データ、データAとデータBがあるとします。データAがデータBから不正に複製されたものである、あるいは関係なく独立して作られたものであることを証明することはきわめて困難です。ということは個人情報が盗まれたか否かを証明することが難しいということです。ちなみに盗まれていないことを証明できると、犯罪そのものがなかったことになります。

 リアルに存在するモノなら同定する方法はいくつもあります。製造番号、傷、指紋などによって、盗まれたものそのものと同定でき、それはこの世の中にひとつしか存在しないといえます。

 データAとデータBを同定するためには、左記のいずれかの方法をとることになります。

・どちらかのデータが唯一無二の存在であったことを証明する

 これは困難です。なぜなら個人情報は、同じものが複数インターネット上に存在することがほとんどですし、いくらでも新しく複製することが可能です。さらに本人以外に家族や知人も個人情報を知っており、それをネットにアップできます。

・状況証拠

 個人情報保有会社固有のIDなどがついている、どちらかのデータが盗まれた痕跡がある、どちらかのデータの方が先に存在していた証拠がある、犯人が犯行を自白している、犯行現場の目撃情報がある、などなど。

 多くの場合は状況証拠でなんとかデータを同定しようとするわけですが、ここに立ちふさがるのが『オリジナルの罠』です。ふたつの同じ個人情報データが存在する時、どちらがオリジナルかを証明することは困難です。『本人』という情報源があらかじめデータとは別に存在しているからです。

 百人の人間が自分の個人情報をデータAとデータBに入力すれば、ふたつの同じデータが百人分できます。どちらも独立して作られたオリジナルのデータです。同じことは本人の個人情報を知っている家族や知人でもできます。

 私が原作を担当しているマンガ『オーブンレンジは振り向かない』(「ハッカージャパン」誌)では、これを悪用した犯罪集団が登場します。

・ターゲットにした会社のサービスに犯罪集団の会員三千人が自分の個人情報を登録する。

・三千人分の個人情報をその会社に見せて、御社から個人情報が漏洩していると脅す。その個人情報は元から犯罪集団が持っていた自分の会員の情報。

・脅された会社がデータを確認すると、確かに登録されている会員情報と、漏洩した情報は一致する。システムへの攻撃や侵入は認められないが、絶対なかったとは言い切れない。まさか三千人も犯罪に加担しているとは思わない。

『サイバー空間におけるデータ同定問題』には、さまざまなバリエーションがあります。いやなことに、犯罪の有無にかかわらず同定証明は可能です。つまり、システムに侵入などしなくてもネット犯罪を量産することが可能です。『オーブンレンジは振り向かない』で用いた前述のトリックはその一例です。逆に犯罪があっても、ないことを証明し、なかったと言い張れます。

 リアルの世界にも犯罪の隠蔽や犯罪の捏造はありましたが、ネットの世界ではそれがより露骨に行われているように思えてなりません(現在進行形)。

 でも、こんなのは序の口です。『サイバー空間におけるデータ同定問題』で本当に怖いのは……おっと紙幅がつきてしまいました。

 サイバー空間は、ミステリの新しい可能性を広げるとともに、小説と現実の壁をなくしました。映画のような演出で殺人を行う犯人はめったにいませんが、サイバーセキュリティミステリに出てくる手口を実際に用いる犯人はいます。『サイバー空間におけるデータ同定問題』で提示される課題は、そのまま現実で実行可能です。昔の推理小説は作中で読者に挑戦しましたが、サイバーセキュリティミステリはリアル社会で読者が直面している見えない犯罪を提示してみせます。『サイバー空間におけるデータ同定問題』を利用した本格ミステリで、みなさんに再びお目にかかれることを楽しみにしています、できることなら、この同じ誌面で。

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