岸田るり子(きしだるりこ)
先日、「スリージェ」というフレンチレストランへ友人と食事に行った。「スリージェ」は、子ウサギのビール煮、シュークルート、豚舌コンフィ豚耳入り、子牛胃とリードヴォー、ドンブ産子鴨のロースト黒イチジク添え、タスマニア産子羊のローストタイム風味など、あまり日本では聞かない食材を使ったフランス料理店だ。それだけに、かなりマニアックな客が多い店でもある。
このお店が、たとえば、パリのリーズナブルで美味しいレストランの並ぶ激戦区にあったとしても繁盛すること間違いなし、フランス人もうならせる腕前をシェフは持っているから、いつも予約で一杯だ。
私たちが席についてメニューを手にご馳走を選んでいると、二人の男女がお店に入ってきた。二人とも憮然とした態度、互いに気を遣っている様子がないことから、見た瞬間、夫婦だろうと私は勝手に推測した。
マダムがメニューを渡したが、夫らしい男はそれに一瞥を送っただけで、何かを選ぶ気配はない。しばらくしてから、マダムが二人のテーブルまで注文を聞きにいく。
すると、夫の方が「カレーライスをください」と唐突に言った。「あの……ここにはカレーライスはないんですけど……」と、マダム。「なんだ、カレーライスはないんか」
渋い顔で男は言う。こういうマニアックなフレンチの店でカレーライスを注文するとは、おかしな客だなあ、と首をかしげながら、私は夫婦の方をそっと盗み見た。男とマダムの間にしばらくの沈黙が流れた。それから、名案を思いついたとばかりに、マダムは提案する。「お向かいにオムライス専門店があるのでそちらへいかはったらどうですか。評判のいいお店みたいですよ」
なるほど、客あしらいには慣れたもの、こういう時の対応はさすがだ。「あっ、そう」
そう言うなり、男は立ち上がり、妻らしき女もむっとした顔で後に続いて店を出ていった。夫婦が向かいのオムライス屋へ入ったかどうかは確認しなかったが、カレーライスが食べたいのだったら、恐らく、そっちに行くのが正解だろう。ケチャップの代わりにカレーのかかったオムライス、というのがメニューにあるかもしれない。
「いわゆる洋食屋さんと間違わはったんですか?」
不思議に思い、私はマダムに聞いた。
「でも、四、五日前から予約してはったお客さんなんですよ」
うーん、これは謎である。わざわざ予約するということは、「スリージェ」がどんなお店か知っているはずではないか。
そこで、このちょっとした謎から私はいつもの癖で、一つのストーリーを思いついてみた。
あれは破局寸前の夫婦だったとしたらどうだろう。特に、妻の方は夫に愛想をつかし、離婚届を突きつけるつもりでいた。だが、妻は夫の気持ちを最後に確かめたくて、以前から友人の間で噂になっている美味しいフランス料理店へ二人で食べにいこうと誘ってみる。そもそも、結婚記念日や自分の誕生日にそういうことをするのはどちらかというと女の方が好きである。
夫の方は吝嗇で外食が嫌いな上にお袋の味と称する煮物や焼き魚しか食べない。毎日同じ料理を作る生活に妻はうんざりしていた。しかも、それを夫は「美味しい」の一言もなく、テレビを見ながら食べる。こんな思いやりのない夫婦生活を続けていくのは妻としてはどうにも耐えられない。
このままいったら離婚、そんな言葉を妻はちらつかせるようになる。夫の方は和食一辺倒、慣れない味のフランス料理など食べにいきたくないと最初は難色を示すが、いままでの積もり積もった不満を妻にぶつけられ、仕方なく同意する。
妻に押し切られる形で、渋々フランス料理とやらへ行くことになったが、夫の方は、やはりどうも面白くない。
行く当日になって、出かける仕度をするのに時間がかかったという些細な理由から夫は妻を攻撃し、また大喧嘩になってしまう。
「俺はそんなもの食いにいきとうない!」
「約束したやないの! 予約だってしてるんやからいまさら断れへんわよ!」
こんなふうにもめながら、二人はお店にやってきた。
店に入って、メニューを手にとってみると、子ウサギ、豚舌、子羊などどんな味なのか想像もつかない料理の名前がずらりと並んでいるのを見て、夫はますます不機嫌になる。
半分やけくそで、自分が唯一洋食として食べられると思われる「カレーライス」――実際にはカレーはインド料理なのだが、日本では洋食屋のメニューとして定着しているので、れっきとした洋食と夫は認識している――を注文する。妻は唖然として言葉も出ない。結局、お店のマダムに向かいのオムライス専門店をすすめられてそっちへ行くことになる。
オムライス屋で勝ち誇ったようにカレーのかかったオムライスを食べる夫を見ながら、妻は心の中で叫ぶ。
――ああ、やっぱり、この人とは離婚やわ!
フレンチレストランを経営していると、デートの場として使われることが多いそうだ。このような夫婦以外にも、熱愛カップルはもとより、プロポーズの場として、また愛人を連れてくるお店として、さまざまな騒動を引き起こすことがあるという。
このカレーライスを注文した客は、マダムの中ではあまり好ましくない客ランキングで、かなり上の方に入るみたいだ。
- 『腐れ縁』 最東対地
- 『九本指』 山吹静吽
- 『忘れられた犯人』 阿津川辰海
- 『ささやき』 木犀あこ
- 『普通と各停って、違うんですか』 山本巧次
- 『雨の日の探偵』 階 知彦
- 『神々の計らいか?』 吉田恭教
- 『虫』 結城充考
- 『監禁が多すぎる』 白井智之
- 『チョコレートを嫌いになる方法』 辻堂ゆめ
- 『銀河鉄道で行こう!』 豊田巧
- 『方向指示器』 小林泰三
- 『庭をまもるもの』 須賀しのぶ
- 『寅さんの足はなぜ光る』 柴田勝家
- 『脱走者の行方』 黒岩 勉
- 『日常の謎の作り方』 坂木 司
- 『味のないコーラ』 住野よる
- 『鍵のゆくえ』 瀬川コウ
- 『彼らはなぜモテるのだろうか……』 市川哲也
- 『やみのいろ』 中里友香
- 『インデックス化と見ない最終回』 十市 社
- 『文系人間が思うロボットの不思議』 沢村浩輔
- 『街道と犬ども』 石川博品
- 『沖縄のてーげーな日常』 友井 羊
- 『ジャンルという名の妖怪たち』 ゆずはらとしゆき
- 『カロリー表示は私を健康に導くのか』 秋川滝美
- 『終電を止める女』 芦沢 央
- 『女子クラスにおける日常の謎』 櫛木理宇
- 『IBSと遅刻癖』 岡崎琢磨
- 『シューズ&ジュース』 青崎有吾
- 『キャラが立つとは?』 東川篤哉
- 『「源氏物語」のサブカルな顔』 荻原規子
- 『そこにだけはないはずの』 似鳥 鶏
- 『『美少女』に関する一考察』 加賀美雅之
- 『食堂Kの謎』 葉真中顕
- 『寒い夏』 ほしおさなえ
- 『人喰い映画館』 浦賀和宏
- 『あやかしなこと』 平山夢明
- 『あなたの庭はどんな庭?』 日明 恩
- 『日常の謎がない謎』 小松エメル
- 『影の支配者』 小島達矢
- 『「五×二十」』 谷川 流
- 『グレープフルーツとお稲荷さん』 阿部智里
- 『ボールペンを買う女』 大山誠一郎
- 『日常の謎の謎』 辻真先
- 『『サイバー空間におけるデータ同定問題』あるいはネット犯罪量産時代』 一田和樹
- 『囲いの中の日常』 門前典之
- 『カレーライスを注文した男』 岸田るり子
- 『お前は誰だ?』 丸山天寿
- 『世界を見誤る私たち』 穂高 明
- 『名探偵は日常の謎に敵うのかしら?』 相沢沙呼
- 『で、あなた何ができるの?はあ、皇帝だったらたぶん…』 秋梨惟喬
- 『すっぽんぽんでいこう!』 桜木紫乃
- 『右腕の長い男』 麻見和史
- 『坂道の上の海』 七河迦南
- 『彼女は地下鉄でノリノリだった、という話。』 柴村仁
- 『その日常で大丈夫か?』 汀こるもの
- 『成功率百パーセントのダイエット』 小前亮
- 『謎の赤ん坊』 蒲原二郎
- 『一般人の愚痴と疑問』 沼田まほかる
- 『寄る怪と逃げる怪』 高田侑
- 『福の神』 木下半太
- 『マッドサイエンティストへの恋文』 森深紅
- 『私の赤い文字』 大山尚利
- 『となりあわせの君とリセット』 詠坂雄二
- 『美人はなぜ美人なのか』 小川一水
- 『なぜモノがあるのか。』 鈴木光司
- 『この目で見たんだ』 北村薫
- 『運命の糸が赤いのは?』 山下貴光
- 『念力おばさん』 湊かなえ
- 『方向オンチはなぜ迷う?』 山本弘
- 『ゆがむ顔のカルマ』 真藤順丈
- 『子供だけが知っている』 宇佐美まこと
- 『人はなぜ、酒を飲むのか』 薬丸岳







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