柴村仁(しばむらじん)
それは、数年前。
私が上京したばかりの頃の話です。
都内のある地下鉄。帰宅ラッシュにはまだ少し早い時間帯。私は車両中ほどのシートに座っておりました。いよいよ次の駅で降りるというところに至ったとき、隣に座っていた女性が突然「すみません」と私に声をかけてきました。もちろん、そのときたまたま隣り合っただけの、見知らぬ方です。当時の私より少し年上の印象、OLっぽい雰囲気の、可愛らしい方でした。彼女は、膝にのせていた大きな紙袋を私に見せながら、遠慮がちに申し出たのです。
「これ、もらってくれませんか」
都会のムチャぶりキタコレ。
ここはどう返せばネタ的にオイシイのか。いや。そういう問題ではないのだ。 これは、対応を間違えたらひどく後悔する類の問題かもしれぬのだ。&ぼんやりしている時間はない。私は次の駅で降りなければならないのだから。
とりあえず、確認しなければならないことが(いろいろ)あります。彼女の示す紙袋の中には、かなり厚みのある缶がみっちりと入っておりました。
「これ……中身はなんですか」
「あ、焼き海苔なんですけど」
やき−のり【焼海苔】
海苔を火であぶったもの。
(広辞苑より)
予想以上の答えでございました。
そんでもって。
焼き海苔だけが入ってるにしてはその缶やけにデカくね?
このゴツい缶いっぱいに納まる焼き海苔の枚数というのはどれほどのものなのでしょうか。見当がつきません。週刊少年誌一冊分くらいの厚さの缶に入った焼き海苔なら実家にもありましたが、ここまで分厚い缶に入った焼き海苔とはこれまでの人生であまり縁がなかった、というか、そもそも、毎日おにぎりをこしらえるわけでもなし、このただならぬ量の焼き海苔を、一人暮らしの若モンが、一年や二年で消費できるとは到底思えません。しけてしまうよ! あと、焼き海苔の用途としてパッと思いつくのは手巻き寿司とかそのへんですが、しかし手巻き寿司をする予定は当面ありません。だいたい、手巻き寿司なんて贅沢をできるような経済状況ではないのだ私は。
すると、焼き海苔の女が言いました。
「私、これ、さっきもらっちゃったんですけど、でも、これから人に会う用事があるので。邪魔になっちゃって」
ほほう。
事情はよく分かりましたが、だからって偶然隣に座った人間がそんな大量の焼き海苔をいきなり引き受けてくれると思っちゃいけないぜ!
つーかさー、これから人に会うなら、その人にあげればいいじゃん?
手土産ってことでいいじゃん?
見るからに高価そうな焼き海苔だしさ。贈って非礼になるもんじゃないよ、きっと。それとも、なんですか、これから会うというその方は、焼き海苔をあげられない間柄なのですか。見ず知らずの人にはあげられるけど、その人にはあげられませんか。そりゃあ、焼き海苔を生産した方、焼き海苔をあなたに贈った方、そして焼き海苔そのものに対して、ビミョーに失礼じゃないかね!?
というようなことが脳裏に次々と浮かんでくるのですが、アドリブに弱い私はこれらをうまく言語化できず、結果としてただただ唖然とするばかりでございました。
私の当惑を察したのでしょうか、焼き海苔の女はさりげなくフォローを差しこみにかかります。
「別に、変なものとか入ってないんで」
当たり前だ!
何を言い出すんだね、キミは!
……いや、待てよ。
このタイミングでこういうことを言うのが逆に怪しくないか? 何か後ろめたさがあるのではないか?……なんてことを考えてしまったが最後、私の思考は妄想モードに突入してしまいました。
さあ、三択だ。真実はどれだ。
(1)彼女の言ってることは全部ホント。彼女は本気で困っている。
(2)彼女の言ってることは全部ウソ。彼女はちょっとした嫌がらせが趣味であり、缶の中には、焼き海苔の代わりに、見る者を嫌な気分にさせるものとかが入ってる。
(3)彼女の言ってることは全部ウソ。彼女は柴村仁の命を狙う秘密結社からさしむけられた刺客であり(以下略)
私の残念な妄想はプラットホームに近づく電車の速度に反比例してどんどん加速していきました(↑文学的表現をしたつもり)……が、結局は「いや、すみません、いいです」と実に平凡な言葉で辞退しました。だって、受け取る決心をつける前に降車駅に着いちゃったんだもん。悩む時間なんてなかったんだもん。
私は「他にほしい人がいると思いますよ」とピントのずれた捨てゼリフを残し、そそくさと下車しました。そして、改札を抜けながら、「電車で偶然隣り合った人が食料をくれる、というのは、大都会東京ではよくあることなのかしら」と首をかしげておりました。
今でも地下鉄に乗ると、ときどきふと思い出します。あの女性は、結局あれからあの大量の焼き海苔をどうしたのだろう、と――。
他の誰かに焼き海苔を譲渡したのだろうか。焼き海苔を携えたまま約束先に向かったのだろうか。それとも……。
彼女のその後を知る術すべはありませんので、想像するより他ありません。ただ、私は、数年経った今になって、「ネタ頂戴しました。おかげでエッセイを書くことができました」と、ほくそ笑むばかりなのです。
- 『腐れ縁』 最東対地
- 『九本指』 山吹静吽
- 『忘れられた犯人』 阿津川辰海
- 『ささやき』 木犀あこ
- 『普通と各停って、違うんですか』 山本巧次
- 『雨の日の探偵』 階 知彦
- 『神々の計らいか?』 吉田恭教
- 『虫』 結城充考
- 『監禁が多すぎる』 白井智之
- 『チョコレートを嫌いになる方法』 辻堂ゆめ
- 『銀河鉄道で行こう!』 豊田巧
- 『方向指示器』 小林泰三
- 『庭をまもるもの』 須賀しのぶ
- 『寅さんの足はなぜ光る』 柴田勝家
- 『脱走者の行方』 黒岩 勉
- 『日常の謎の作り方』 坂木 司
- 『味のないコーラ』 住野よる
- 『鍵のゆくえ』 瀬川コウ
- 『彼らはなぜモテるのだろうか……』 市川哲也
- 『やみのいろ』 中里友香
- 『インデックス化と見ない最終回』 十市 社
- 『文系人間が思うロボットの不思議』 沢村浩輔
- 『街道と犬ども』 石川博品
- 『沖縄のてーげーな日常』 友井 羊
- 『ジャンルという名の妖怪たち』 ゆずはらとしゆき
- 『カロリー表示は私を健康に導くのか』 秋川滝美
- 『終電を止める女』 芦沢 央
- 『女子クラスにおける日常の謎』 櫛木理宇
- 『IBSと遅刻癖』 岡崎琢磨
- 『シューズ&ジュース』 青崎有吾
- 『キャラが立つとは?』 東川篤哉
- 『「源氏物語」のサブカルな顔』 荻原規子
- 『そこにだけはないはずの』 似鳥 鶏
- 『『美少女』に関する一考察』 加賀美雅之
- 『食堂Kの謎』 葉真中顕
- 『寒い夏』 ほしおさなえ
- 『人喰い映画館』 浦賀和宏
- 『あやかしなこと』 平山夢明
- 『あなたの庭はどんな庭?』 日明 恩
- 『日常の謎がない謎』 小松エメル
- 『影の支配者』 小島達矢
- 『「五×二十」』 谷川 流
- 『グレープフルーツとお稲荷さん』 阿部智里
- 『ボールペンを買う女』 大山誠一郎
- 『日常の謎の謎』 辻真先
- 『『サイバー空間におけるデータ同定問題』あるいはネット犯罪量産時代』 一田和樹
- 『囲いの中の日常』 門前典之
- 『カレーライスを注文した男』 岸田るり子
- 『お前は誰だ?』 丸山天寿
- 『世界を見誤る私たち』 穂高 明
- 『名探偵は日常の謎に敵うのかしら?』 相沢沙呼
- 『で、あなた何ができるの?はあ、皇帝だったらたぶん…』 秋梨惟喬
- 『すっぽんぽんでいこう!』 桜木紫乃
- 『右腕の長い男』 麻見和史
- 『坂道の上の海』 七河迦南
- 『彼女は地下鉄でノリノリだった、という話。』 柴村仁
- 『その日常で大丈夫か?』 汀こるもの
- 『成功率百パーセントのダイエット』 小前亮
- 『謎の赤ん坊』 蒲原二郎
- 『一般人の愚痴と疑問』 沼田まほかる
- 『寄る怪と逃げる怪』 高田侑
- 『福の神』 木下半太
- 『マッドサイエンティストへの恋文』 森深紅
- 『私の赤い文字』 大山尚利
- 『となりあわせの君とリセット』 詠坂雄二
- 『美人はなぜ美人なのか』 小川一水
- 『なぜモノがあるのか。』 鈴木光司
- 『この目で見たんだ』 北村薫
- 『運命の糸が赤いのは?』 山下貴光
- 『念力おばさん』 湊かなえ
- 『方向オンチはなぜ迷う?』 山本弘
- 『ゆがむ顔のカルマ』 真藤順丈
- 『子供だけが知っている』 宇佐美まこと
- 『人はなぜ、酒を飲むのか』 薬丸岳