小川一水(おがわいっすい)
縁あって結婚しているが女性に言い寄られたことは一度もない。言い寄って断られたことは独り身のころけっこうあった。理由はわかっている。美しく男らしい容姿をしておらず、女性に不親切でマニアックな話ばかりする子供っぽくて挙動不審な男だったからだ。将来性皆無の作家志望であることを公言していたせいもあるだろう。思えば計画性などまるでない若者だった。
自分のことはいい。顔の謎について話をしたい。
世の中には美男美女がいる。どなたも異存のないことだと思うが、では美男美女とはなんであろうか。男性なら苦みばしった眉目と引き締まった口元、きちんと手入れされた髪。女性なら大きくぱっちりとした二重の目と柔らかそうな唇、水気のあるしっとりした肌に、長くつややかな髪、などといった要素が通り相場だ。昨今ではユニセックス化が進んで、男の精悍さと女の優美さを兼ねそなえたおそろしいほどの美人も現れた。
目鼻立ちがよい、髪が美しい、といっても、それらは要するに感覚器官ならびに保護器官の配置と形状の差異でしかない。美人のほうが視力がよくて百メートル先に落ちている硬貨を見つけられるなどということはなく、機能的には美人でも不美人でも相違はない。それなのに人は美人を見ると好ましい思いに駆られる。これは大きな謎だといわねばならない。
なぜ美人を美人だと感じるのか。進化史的な経緯を妄想してみる。太古、ヒトはみな猿のような顔をしており、いうなれば人類総不細工だった。その中に突然変異によって美人が発生したとする。この人は当初から好ましいものとして扱われただろうか。それは疑問だ。なぜなら当時、猿のようなヒトたちは外敵と飢えと寒さから逃げるのに精一杯で、目鼻の位置が左右に二、三ミリ異なるだけの同胞を優遇する余裕はなかったはずだからだ。それぐらいなら、視力がいいとか嗅覚が鋭いとか、あるいはよい子を産みそうな大きな骨盤を有している等、機能面に着目した優遇策を取っただろう。つまり進化の曙において、美人は無視されたはずだ。だが現代ではそうではない。どこかに美人が美人として扱われるきっかけとなった出来事があったと考えられる。
高等哺乳類には表情というものがある。表情とは要するにてっとり早い意思伝達手段である。もっとも最初に生まれた表情は泣き顔だったと思われる。なぜならばそれは生存に直結する表現だからだ。抵抗しないから命ばかりは許してくれ、という意思を表明するのが泣き顔だった。この顔ができた者のほうが、できなかった者より生き延びやすかったことは自明だろう。ために泣き顔は進化において選択された。その痕跡は今でも残っていて、赤ん坊はほあほあと泣いて生まれてくる。それによって周囲の大人は庇護心を喚起される。
泣き顔に続いて採用されたのは怒り顔だっただろう。怒り顔は威嚇を表し、実際に攻撃せずにそれに近い成果を得ることができる。攻撃は反撃される恐れのあるリスクの高い行動だから、これを避けられるのは大きな利点だ。さらに人間は笑い顔というものを採用しているが、これの解釈はちょっと難しい。犬猫は笑わないので、笑いが知能の高さと関係していることは考えられる。人間にはミラーニューロンといって感情移入をつかさどる神経部位がある。このニューロンによって生じるのが想像力だ。想像力があれば、楽しんでいる相手を見て自分も楽しむことができるから、その人に向かって「いま、楽しんでいるよ!」と告げることは、有効な報酬となるだろう。これもまた赤ん坊の観察から結論できる。赤ん坊は限られたリソースを割いて、早くからキャッキャッと笑う。
ながながと何の話をしているかというと、顔面部品の操作という瑣末な行為が、ヒトの社会においていかに対費用効果の高い生存手段であるかを指摘したのである。言い方を変えれば、ヒトは顔面部品の微動に頼ることで大幅にコミュニケーションのコストを削減したということだ。ネットの匿名掲示板を想起してもらえばいい。匿名掲示板で信頼できる関係を築くことは難しい。われわれは個人認証等で信用を補っているが、ビジネス以上の付き合いをしようと思えば「顔をつなぐ」ことが不可欠である点は同意していただけるだろう。
さて、この顔に頼った社会で美人はいかなる意味を持つか。
結論から申しあげれば、美人は美人なのではない。
コミュニケーションの一方策として顔に対して極度にセンシティブになった結果、本来なら意味を持たない細かな造形の差異をも検出できるようになった人の脳が、勘違いで美醜を当てはめているだけである。
なんだそりゃと言われるかもしれないが、人間はおそらく、美の感性と顔面判定の感性を別々に持っているはずである。それがなんらかの理由(脳内での領野が近い、などだったら面白い)で連合してしまったがために、たまたま顔について美醜を感じるようになったのだろう。
そんな馬鹿なと思われる方は、街で人々の手を眺めてほしい。人間の手は顔同様に千差万別だが、「美手」の持ち主がほめたたえられる事は美人に比べて少ないし、そもそも手が注目を受けること自体があまりない。その理由をうまく説明できるだろうか。
言ってみれば美人とは、ヒト社会に発生したセキュリティホールにうまくはまった、偶発性のクラッカーであろう。以上、あくまでも随想であるとお断り。
- 『腐れ縁』 最東対地
- 『九本指』 山吹静吽
- 『忘れられた犯人』 阿津川辰海
- 『ささやき』 木犀あこ
- 『普通と各停って、違うんですか』 山本巧次
- 『雨の日の探偵』 階 知彦
- 『神々の計らいか?』 吉田恭教
- 『虫』 結城充考
- 『監禁が多すぎる』 白井智之
- 『チョコレートを嫌いになる方法』 辻堂ゆめ
- 『銀河鉄道で行こう!』 豊田巧
- 『方向指示器』 小林泰三
- 『庭をまもるもの』 須賀しのぶ
- 『寅さんの足はなぜ光る』 柴田勝家
- 『脱走者の行方』 黒岩 勉
- 『日常の謎の作り方』 坂木 司
- 『味のないコーラ』 住野よる
- 『鍵のゆくえ』 瀬川コウ
- 『彼らはなぜモテるのだろうか……』 市川哲也
- 『やみのいろ』 中里友香
- 『インデックス化と見ない最終回』 十市 社
- 『文系人間が思うロボットの不思議』 沢村浩輔
- 『街道と犬ども』 石川博品
- 『沖縄のてーげーな日常』 友井 羊
- 『ジャンルという名の妖怪たち』 ゆずはらとしゆき
- 『カロリー表示は私を健康に導くのか』 秋川滝美
- 『終電を止める女』 芦沢 央
- 『女子クラスにおける日常の謎』 櫛木理宇
- 『IBSと遅刻癖』 岡崎琢磨
- 『シューズ&ジュース』 青崎有吾
- 『キャラが立つとは?』 東川篤哉
- 『「源氏物語」のサブカルな顔』 荻原規子
- 『そこにだけはないはずの』 似鳥 鶏
- 『『美少女』に関する一考察』 加賀美雅之
- 『食堂Kの謎』 葉真中顕
- 『寒い夏』 ほしおさなえ
- 『人喰い映画館』 浦賀和宏
- 『あやかしなこと』 平山夢明
- 『あなたの庭はどんな庭?』 日明 恩
- 『日常の謎がない謎』 小松エメル
- 『影の支配者』 小島達矢
- 『「五×二十」』 谷川 流
- 『グレープフルーツとお稲荷さん』 阿部智里
- 『ボールペンを買う女』 大山誠一郎
- 『日常の謎の謎』 辻真先
- 『『サイバー空間におけるデータ同定問題』あるいはネット犯罪量産時代』 一田和樹
- 『囲いの中の日常』 門前典之
- 『カレーライスを注文した男』 岸田るり子
- 『お前は誰だ?』 丸山天寿
- 『世界を見誤る私たち』 穂高 明
- 『名探偵は日常の謎に敵うのかしら?』 相沢沙呼
- 『で、あなた何ができるの?はあ、皇帝だったらたぶん…』 秋梨惟喬
- 『すっぽんぽんでいこう!』 桜木紫乃
- 『右腕の長い男』 麻見和史
- 『坂道の上の海』 七河迦南
- 『彼女は地下鉄でノリノリだった、という話。』 柴村仁
- 『その日常で大丈夫か?』 汀こるもの
- 『成功率百パーセントのダイエット』 小前亮
- 『謎の赤ん坊』 蒲原二郎
- 『一般人の愚痴と疑問』 沼田まほかる
- 『寄る怪と逃げる怪』 高田侑
- 『福の神』 木下半太
- 『マッドサイエンティストへの恋文』 森深紅
- 『私の赤い文字』 大山尚利
- 『となりあわせの君とリセット』 詠坂雄二
- 『美人はなぜ美人なのか』 小川一水
- 『なぜモノがあるのか。』 鈴木光司
- 『この目で見たんだ』 北村薫
- 『運命の糸が赤いのは?』 山下貴光
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