北村薫(きたむらかおる)
『オール讀物』に佐藤愛子先生が「これでおしまい」という連載エッセーを書いている。この間の十月号が、「とりとめもなく嘘について」という回だった。
その中には、ただの《嘘》ではなく、困った思い込みについても触れられていた。
《女流文壇の大御所》から、ある時、《「あれは何のパーティだったかしら、佐藤さんは×○△さんに迫られてたわね」》といわれた。仰天して、いかに抗弁しても《「間違いないわよ。わたしがこの目で見たんだもの」》。
その時の、迫り迫られる二人の様子まで細部にわたって語られたという。×○△さんとは、一度も会ったことがない。《「そんなバカな……」》と絶句してしまったそうだ。
こんな時、どれほど意を尽くして説明しても、相手の《記憶》は少しも揺るがない。何しろ、この目で見た――のだから。
小林秀雄が亡くなった時、多くの人が思い出を語った。高見澤潤子の『兄小林秀雄』によると、事実関係の違っているものが、かなりあったという。
特に、文学史上の有名人といっていい女性――小林と中原中也と三角関係になった人の記憶が、妹として耐え難いほど歪んでいたらしい。
『文藝』に載った対談「小林秀雄の思い出」がそれである。高見澤は、《本人は本当だと思いこんでいっているのだろうが、彼女の記憶はめちゃくちゃである。年代も場所も全然ちがうし、事実にないことをやたらにならべている》と語り、その例もあげている。
活字になってしまえば、後にそういうものを、小林を語る材料にする人も現れるだろう。
人の記憶というのは、まことに不思議なものだ。実は、こういった例をあげるのは難しくない。吉村昭が、取材について語った中にも、あり得ないことを事実として語る《歴史の生き証人》が出て来る。まさに、この目で見たんだ――と、真剣にいうのである。
時を経て、そういう人の語るものが、何かの事件や人物に関する唯一の資料となったらどうか。揺るがぬ事実となるのだろう。
外から見て、おかしなものだ――というだけではない。わたし自身、人はそういう状態になるものだと、実感したことがある。
高校の教員をしていた時のことだ。夕方、何かで急にお金が必要になった。ところが財布を見ると持ち合わせがない。困ってしまった。丁度、廊下の向こうからやって来たF先生に事情を話し、一万円札一枚を借りた。
昔の一万円は大金である。翌朝、すぐF先生に、
「どうも、すみませんでした」
といって、札を差し出した。すると、向こうは怪訝な顔をしている。
「何、これ?」
「ほら、昨日、借りたじゃないですか」
「ええ? ――俺が貸したの?」
「そうですよ」
「――本当?」
おかしなことをいうと思った。つい昨日の出来事である。
わたしの頭には、その時の情景がはっきりと残っている。
……薄暗くなった周囲、渡り廊下をやって来るF先生。事情を話すわたし。財布から一万円札を抜き出してくれた時のF先生の顔。ことの流れ、相手の表情まで、はっきり覚えていた。
わたしは、やっきになって説き伏せる――といった調子で首をひねっているF先生に、札を押し付けた。
ところが、その日の夕方である。眼鏡をかけた理科のS先生が、いいにくそうに、
「あの……」
と切り出した。例のお金はどうなっているのだろう――という疑問である。こちらが《明日、返します》といった。しかし、顔をあわせているのに、それらしい様子が全くない。不安になったわけだ。
わたしは、びっくりして、
「えっ。確かにわたし、お金借りましたけど、F先生からですよ」
相手も驚いた。そこから、しばらくやり取りが続いた。
いわれてみると、今朝のF先生の反応を思い出す。なるほど、全く心当たりがない――という顔をしていた。勿論、S先生がどこかから金の貸し借りを見ていて、それを材料に嘘をいう筈などない。
つまり、客観的にみて、わたしが金を借りた相手は後者ということになる。結局、F先生から朝の一万円を返してもらい、S先生に渡した。
「あー、どうなることかと思った」
S先生は、ほっと一安心。
しかし、一件落着した後でも、わたしの《記憶》は納得していなかった。脳の画面にはっきり刷り込まれているのは、F先生とのやり取りなのだ。F先生は眼鏡をかけていない。S先生と教科も違えば、体格も、口調も違う。どうして、そういう二人が、《記憶》の中ですり替わるのか不思議でならなかった。
これは自分の頭の中で、現実に起こったことである。それだけに、思いは生々しい。
本格ミステリで、謎解きの材料となるのは登場人物の証言である。しかし、正しいと信じていわれていることが、事実でなかったらどうか。歪んだ積み木で家を作るようなことになってしまう。小説の中では、そういうことはないというルールを作っておけばいい。
しかし、現実社会ではそうはいかない。誤った記憶は、解けない疑問を生む。
思えば心こそ、まさに大きな、日常を覆う謎だろう。
- 『腐れ縁』 最東対地
- 『九本指』 山吹静吽
- 『忘れられた犯人』 阿津川辰海
- 『ささやき』 木犀あこ
- 『普通と各停って、違うんですか』 山本巧次
- 『雨の日の探偵』 階 知彦
- 『神々の計らいか?』 吉田恭教
- 『虫』 結城充考
- 『監禁が多すぎる』 白井智之
- 『チョコレートを嫌いになる方法』 辻堂ゆめ
- 『銀河鉄道で行こう!』 豊田巧
- 『方向指示器』 小林泰三
- 『庭をまもるもの』 須賀しのぶ
- 『寅さんの足はなぜ光る』 柴田勝家
- 『脱走者の行方』 黒岩 勉
- 『日常の謎の作り方』 坂木 司
- 『味のないコーラ』 住野よる
- 『鍵のゆくえ』 瀬川コウ
- 『彼らはなぜモテるのだろうか……』 市川哲也
- 『やみのいろ』 中里友香
- 『インデックス化と見ない最終回』 十市 社
- 『文系人間が思うロボットの不思議』 沢村浩輔
- 『街道と犬ども』 石川博品
- 『沖縄のてーげーな日常』 友井 羊
- 『ジャンルという名の妖怪たち』 ゆずはらとしゆき
- 『カロリー表示は私を健康に導くのか』 秋川滝美
- 『終電を止める女』 芦沢 央
- 『女子クラスにおける日常の謎』 櫛木理宇
- 『IBSと遅刻癖』 岡崎琢磨
- 『シューズ&ジュース』 青崎有吾
- 『キャラが立つとは?』 東川篤哉
- 『「源氏物語」のサブカルな顔』 荻原規子
- 『そこにだけはないはずの』 似鳥 鶏
- 『『美少女』に関する一考察』 加賀美雅之
- 『食堂Kの謎』 葉真中顕
- 『寒い夏』 ほしおさなえ
- 『人喰い映画館』 浦賀和宏
- 『あやかしなこと』 平山夢明
- 『あなたの庭はどんな庭?』 日明 恩
- 『日常の謎がない謎』 小松エメル
- 『影の支配者』 小島達矢
- 『「五×二十」』 谷川 流
- 『グレープフルーツとお稲荷さん』 阿部智里
- 『ボールペンを買う女』 大山誠一郎
- 『日常の謎の謎』 辻真先
- 『『サイバー空間におけるデータ同定問題』あるいはネット犯罪量産時代』 一田和樹
- 『囲いの中の日常』 門前典之
- 『カレーライスを注文した男』 岸田るり子
- 『お前は誰だ?』 丸山天寿
- 『世界を見誤る私たち』 穂高 明
- 『名探偵は日常の謎に敵うのかしら?』 相沢沙呼
- 『で、あなた何ができるの?はあ、皇帝だったらたぶん…』 秋梨惟喬
- 『すっぽんぽんでいこう!』 桜木紫乃
- 『右腕の長い男』 麻見和史
- 『坂道の上の海』 七河迦南
- 『彼女は地下鉄でノリノリだった、という話。』 柴村仁
- 『その日常で大丈夫か?』 汀こるもの
- 『成功率百パーセントのダイエット』 小前亮
- 『謎の赤ん坊』 蒲原二郎
- 『一般人の愚痴と疑問』 沼田まほかる
- 『寄る怪と逃げる怪』 高田侑
- 『福の神』 木下半太
- 『マッドサイエンティストへの恋文』 森深紅
- 『私の赤い文字』 大山尚利
- 『となりあわせの君とリセット』 詠坂雄二
- 『美人はなぜ美人なのか』 小川一水
- 『なぜモノがあるのか。』 鈴木光司
- 『この目で見たんだ』 北村薫
- 『運命の糸が赤いのは?』 山下貴光
- 『念力おばさん』 湊かなえ
- 『方向オンチはなぜ迷う?』 山本弘
- 『ゆがむ顔のカルマ』 真藤順丈
- 『子供だけが知っている』 宇佐美まこと
- 『人はなぜ、酒を飲むのか』 薬丸岳