ショートスカート・ガール
加藤眞男
これは言ってみれば、ふたつ重ねて出される重箱弁当の体裁で、上の箱において物語は一応の完結を見せるが、持ち上げて下の箱に移れば、完結したと見えた物語が、ふた箱目の深部では別の姿を見せはじめ、同じ材料がまったく違った噛みあい方をして、予想外の結末を導く、そういう驚きの仕掛けである。
この作者が応募してきた三作のうち、当方が読む機会を得た『ショートスカート・ガール』と『新百合ヶ丘殺人事件』は、二作がともに、同じそうした二重底構造を持っていた。両者はまるで種類が違う物語なのだが、骨組みとしてのそうしたメソッドも同じなら、完成の度あいも同等という驚異的職人芸ぶりで、そう言ってよいなら、団塊の世代のモノづくり天才ぶりが、ミステリー創作においてもいかんなく発揮されたと、そういうことに見えた。
当方もまた、「本格ミステリー」とは、驚きの装置としての人工的小説のことであり、この驚きには「どんでん返し手法」というものも、その最も有力な一手段として存在すると理解している。どんでん返しによる驚きの主要部分は、論理性によって支えられるべき、とも考えている。ただし、本格ミステリーをどんでん返しの小説、と規定するのは少々危ない。この作例が無思慮に十作も続けば、読者の予想が先廻りするようになり、どんでん返しは意味を失う。ここが創作が、機械商品と違うところである。
もう少し述べれば、事件解明をめざして推理論理が作中行われるのであるが、この論理が一定以上高度な印象であることを、「本格」という称号を冠する条件と考えている。展開中、この推理と追及が不充分な段階で、おそらくは犯罪者の知性が仕掛ける陥穽に填まって、主人公も読者も、偽の解決を掴まされることがある。しかし事態がやがて真の解決に向かえば、そうした屈折の展開それ自体が作の構造を込み入らせ、展開説明や、解明の論理を高度にして、より本格度を上げる、というふうに考えている。
すなわちこの作者のジャンルへの理解や、創作上考えている内容は、本格ミステリー創作のアプローチとして、充分に正しい。当『ショートスカート・ガール』が持たされているどんでん返しも、物語がよく練られ、ひねられていて、行われたどんでん返しが、その解説部分の言葉を論理的にしていた。そしておそらくは作者の意識外で、この軽妙な物語を上質な本格ものにしていた。
上で思わず述べた通り、この作者の作風は「軽妙」で、感性が終始、青年ふうの軽さを見せている。おそらくは「通勤電車中の読み物」とするような作者のジャンル把握が、ここから踏み出さない軽さを作に与えるようで、そういう意識の大衆性は、好ましいものとしてこちらにも映った。つまりそうした意識が、小説をあきらかに読みやすく、また面白くしていた。
扱われているテーマも、電車内での女性のスカート内盗撮で、このところの世相をよく映したものであるが、この事件の質について弁護士が解析説明を始めても、対象が対象であるだけに言葉が重くならず、どこまで鋭く掘り下げても軽妙なジョークのような会話が続いて、作者の笑みが見えるようである。
にもかかわらず、ここで指摘されるポイント、この犯罪が日本に固有のものであるとか、見えるものは布であり、この種の欲動は、人類の繁殖には繋がらない、あるいは肉体を見たい欲望はヒト種のプログラムであるが、刷り込まれた布への願望はアプリケーションである、などといった珍説は、果たしてどこまで本気で作者が述べているのか不明になって、はたと膝を打たされてさえ、なおシニカルなジョークのようである。