『殊能将之 読書日記 2000-2009 The Reading Diary of Mercy Snow』
著者:殊能将之(しゅのう・まさゆき)
定価:本体2,700円(税別)
デイヴィッド・I・マッスン、ジーン・ウルフ、D・G・コンプトン、ブライアン・W・オールディス、グラディス・ミッチェル、ジェイムズ・ブリッシュ、ピアズ・アンソニイ、マイクル・イネス、トマス・M・ディッシュ、サミュエル・R・ディレイニー、フリッツ・ライバー、ピーター・ディキンスン、ポール・アルテ、バリントン・J・ベイリー、アカヒゲ・ナンバン、アルジス・バドリス、ウィリアム・ギャディス、ローラン・ラクーブ、ジャック・ヴァンス、ミシェル・ジュリ、アヴラム・デイヴィッドスン、ジョルジュ・ペレック、ジョン・スラデック他
最初に、個人的な思い出話をここでするのをお許し願いたい。昔、早川の〈ミステリマガジン〉誌で「殺しの時間」という未訳小説をめぐるエッセイを連載していたときのことだ。そのある回で、当時わたしが翻訳中だったG・カブレラ=インファンテの『煙に巻かれて』の翻訳作業について触れ、その中に出てくる“If I Had a Hammett”というハメットを題材にした断章のタイトルを、「エルンスト・ルビッチの映画If I Had a Millionのもじり」だと書いたら、ある読者からお手紙を頂戴した。それはPPMの名曲「天使のハンマー」(If I Had a Hammer)のもじりではないかというのだ。
なるほど、言われてみればそのとおりで、気づかなかったのがおかしいくらいだが、なにしろこの『煙に巻かれて』は世界で最も駄洒落の多い本と評する人もいるほどなので、凡人の訳者としては、どまんなかに来ている球を空振りしてしまったケースも当然ながら多々あるだろう。そういうわけで、訳稿の下書きの段階ではルビッチからの連想で「生きるべきか死ぬべきか」という仮の訳を付けていたが、最終稿では「天使のハメット」という案に落ちついた。このあたりの事情は、拙書『殺しの時間』をお読みいただきたい(そうは言っても、カブレラ=インファンテは希代の映画狂なので、ルビッチの線を消してしまったことにはいまだに少しうしろめたさが残っている。本当のところは、ルビッチとPPMのどちらもカブレラ=インファンテの頭の中にあったような気がするが、本人はすでに亡くなっているので、真相をたずねるわけにもいかない。残念だ)。
それはともかく、「天使のハンマー」が元ネタではないかとご教示いただいた、その手紙の主が殊能氏だったのである。
もちろん、その手紙には殊能と署名されていたわけではなかった。その代わりに、殊能氏の本名が書かれていた。
わたしは業界通ではないので、その人が裏筋では有名な人物だとは知らなかった。まさか、それが殊能氏だとは、そのときには夢にも思わなかった。手紙の文面にも、それを想わせるようなところは一切なかった。そういう事情で、それ以上のやりとりはなく、そのままになってしまった。
あのときに殊能氏だとわかっていたら、もう少しいろいろなやりとりができたかもしれない、と思う。その反面、やはりそのままになっていたかもしれない、とも思う。後者の可能性の方が、殊能氏相手だと高そうだし、
それでもいいか、と思う。わたしにとって、殊能氏は「世の中にこういう人もいるのだなあ」とぼんやり意識させられる、ミステリアスな存在であり続けているのだから。
この続きは『殊能将之 読書日記 2000-2009 The Reading Diary of Mercy Snow』で!
殊能将之氏の公式サイトMercy Snow Official Homepageに掲載されたreading diaryは、よくある作家の読書日記とは一線を画している。あえて形式的に分類するなら、リーディングの公開日誌というのが一番しっくり
くるように思う。
ここでいうリーディングとは、まだ日本語に訳されていない海外小説を読んで、出版社が翻訳出版するかどうかを検討するための資料(レジュメ、シノプシス)を作成する仕事のことだ。レジュメは作品のあらすじと評価、作者のプロフィールや書誌情報などから構成される。殊能氏の紹介文もおおむねリーディングの基本を押さえているけれど、プロの翻訳家の営業ではなく、好事家(こうずか)の道楽というスタンスでやっているのが、本書のポイントだろう(2004年11月23日、および2005年9月29日等の記述を参照。なお2004年8月前半のmemoには、もっと踏みこんだ記述がある)。
ミステリ畑でいうと「J⋅Jおじさん」こと、植草甚一(うえくさじんいち)氏の立ち位置に近い。気軽に話しかけるような独特の語り口も、植草氏ゆずりだ。ただし殊能氏のあらすじ紹介は、冗長になりがちな植草流の実況ダイジェストと比べると、もっと俯瞰的(ふかんてき)で整理されている。ポール・アルテ『虎の首』の時系列を整理したレジュメ(2001年11月15日)とか、レイアウトも含めてかなり手間がかかっているのではないか。このまま雑誌で連載しても立派に通用する文章だし、本人もある程度そのつもりで書いていたように思われる。memoやTwitterでの発言より、活字媒体になじみやすいスタイルが採用されているといってもいい。
海外ミステリへの言及では、「嫌味なインテリ英国人」のマイクル・イネスとピーター・ディキンスン、それに「フランスのカー」こと、ポール・アルテが御三家だろう。特にアルテの紹介文は、量的にも質的にも突出し
ていて、殊能氏の偏愛ぶりがうかがえる。総じてマニアックな話題に終始しているのに、オタクをこじらせたような臭みを感じさせないのは、人徳(「文は人なり」の意)というほかない。見習いたいものである。
本格ミステリの評価軸という面では、都筑道夫(つづきみちお)─瀬戸川猛資(せとがわたけし)スクールの門下生であることを隠していない。とりわけ瀬戸川氏の代表作『夜明けの睡魔』の文体を、ずいぶん意識しているようだ。一例を挙げると、マイクル・イネスの作風について記した2003年10月12日の記述。「江戸川乱歩の呪縛」を悪魔祓いしようとする後段の書きぶりは、『夜明けの睡魔』に収録された「おお、オフビート──『矢の家』」という文章と響き合うもの
がある。殊能氏がイネスの面白さを語る際には、「ミステリは、もっと愉快に、不まじめに」という瀬戸川氏の標語が、つねに念頭にあったのではないか(イネスやグラディス・ミッチェルといった「英国ファルス派」への
関心は、宮脇孝雄(みやわきたかお)氏の『書斎の旅人』に由来するのかもしれないが、面白がるツボが違うような気がする)。
この続きは『殊能将之 読書日記 2000-2009 The Reading Diary of Mercy Snow』で!
著者紹介
殊能将之(しゅのう・まさゆき)
1999年『ハサミ男』で第13回メフィスト賞を受賞し作家デビュー。
以降、ミステリーにSFの手法を合わせた作品を
名探偵・石動戯作(いするぎぎさく)シリーズ
『美濃牛』『黒い仏』『鏡の中は日曜日』『樒(しきみ)/榁(むろ)』『キマイラの新しい城』として上梓。
アヴラム・デイヴィッドスン『どんがらがん』編集に関しては本書に詳しい。
2013年2月、他界。
殊能将之 著作リスト
ハサミ男 Scissor Man
講談社ノベルス1999 年8月刊/講談社文庫2002年8月刊
第13回メフィスト賞受賞作
美濃牛 Minotaur
講談社ノベルス2000年4月刊/講談社文庫2003年4月刊
黒い仏 Black Buddha
講談社ノベルス2001年1月刊/講談社文庫2004年1月刊
鏡の中は日曜日 Im Spiegel ist Sonntag
講談社ノベルス2001年12月刊/講談社文庫2005年6月刊
樒(しきみ)/榁(むろ) Anise & Juniper
講談社ノベルス2002年6月刊/講談社文庫2005年6月刊
この作品は講談社ノベルス創刊20周年記念「密室本」として刊行されました。
講談社文庫では『鏡の中は日曜日』に収録されています。
キマイラの新しい城 Le Nouveau Château des Chimères
講談社ノベルス2004年8月刊/講談社文庫2007年8月刊
子どもの王様 A Child’s King
単行本 講談社2003年7月刊/講談社ノベルス2012年8月刊 講談社文庫2016年1月刊
この作品はミステリーランド第1 回配本として刊行され、
第38回造本装幀コンクール展で文部科学大臣賞を受賞しました。
殊能将之 読書日記 2000-2009 The Reading Diary of Mercy Snow
単行本 講談社 2015年6月刊
リレー短編集『9の扉』
北村薫、法月綸太郎、鳥飼否宇、麻耶雄嵩、竹本健治、
貫井徳郎、歌野晶午、辻村深月共著
単行本 マガジンハウス2009年7月刊/角川文庫2013年11月刊
殊能将之 編集作品
奇想コレクション『どんがらがん』
アヴラム・デイヴィッドスン著、浅倉久志他訳
単行本 河出書房新社2005年10月刊/河出文庫2014年2月刊