『転生(てんせい)の魔 私立探偵飛鳥井の事件簿』 著者:笠井 潔 定価:本体2,000円(税別)
ある作品を評して「主人公は作者と等身大だ」と語られることがある。どんな登場人物も作者の分身には違いないが、もう少し限定された意味で作者=主人公の等式が成立する場合に、このように語られるようだ。自伝小説や私小説の主人公はもちろん、太宰治『人間失格』、三島由紀夫『仮面の告白』、大江健三郎の『新しい人よ眼ざめよ』などの主人公も等身大と評される。後期作品では極端にデフォルメされた、虚構性の高い人物を数多く登場させたドストエフスキイも、初期や中期の作品では作者と等身大の主人公を描いている。 ドストエフスキイ作品でいえば、わたしは『死の家の記録』より『罪と罰』の主人公のほうに魅力を感じるタイプの読者だ。作者としても同じことで、自分のことを書きたいから小説家になったわけではない。とはいえ矢吹駆連作や『ヴァンパイヤー戦争(ウォーズ)』などで自分の十倍、百倍サイズの主人公を描いたあと、等身大の主人公なるものに多少の興味が湧いてきた。 探偵小説に等身大の主人公を登場させるのは簡単ではない。水上勉氏のように社会派推理小説作家から私小説的な純文学作家に転業すれば話は簡単だろうが、私小説を書きたいわけではない。そもそも団塊世代のまともな文学少年は、私小説こそ諸悪の根源だという戦後文学者たちの意見を、頭からシャワーのように浴びて育ったところがある。 自分のことをじかには書かないが、等身大の主人公は描いてみたい。そこで構想したのが『三匹の猿』の主人公だった。飛鳥井は作者と同年生まれで、身長や体重など身体的特徴も似せてある。月島生まれで中目黒在住としてもよかったが、生まれ育った場所や住んでいる場所は友人のものを流用した。ただし『三匹の猿』の事件が起こるのは、中目黒から引っ越した先の八ヶ岳高原で、飛鳥井シリーズ第三作の『魔』では近所の白州に山小屋があることにした。飛鳥井が私立探偵を廃業して山に隠棲すれば、生活形態は作者と変わらなくなる。 もちろん、これらは外見的で些末な問題にすぎない。「等身大」の真の意味は、主人公の抽象的な生存感覚にある。子供の頃から自分のことを、人型に切り抜かれた紙細工のように感じてきた。この点で飛鳥井という主人公は、わたしが描いてきた主人公たちの誰よりも作者本人によく似ている。
1948年東京生まれ。1979年にデビュー作『バイバイ、エンジェル』で角川小説賞受賞。1998年『本格ミステリの現在』編纂で第51回日本推理作家協会賞 評論その他の部門を受賞。2003年『オイディプス症候群』と『探偵小説論序説』で第3回本格ミステリ大賞小説部門と評論・研究部門を同時受賞。2012年『探偵小説と叙述トリック』で第12回本格ミステリ大賞評論・研究部門を受賞。現象学を駆使する矢吹駆が登場する『サマー・アポカリプス』『哲学者の密室』や伝奇ロマン「ヴァンパイヤー戦争(ウォーズ)」シリーズなど著作多数。小説のみならず評論においても旺盛な活動を続ける。
2016年に3回にわたって「メフィスト」に連載された基本稿450枚に300枚を加筆。プロットが組み直され、メインキャラがひとり増えました。それにより連載時とは結末がまったく別物になりました(!)。初校と再校には大量の直しが入り、徹底的に磨き上げられた、まさに笠井潔先生入魂の大作、それが『転生の魔 私立探偵飛鳥井の事件簿』です。 笠井先生の新作ミステリは6年ぶり、私立探偵飛鳥井シリーズはなんと14年ぶりの復活、と二重の意味でファン待望の一冊となりました。本格ミステリとハードボイルドと社会問題を結びつける贅沢な内容がこのシリーズのポイントですが、今回はさらに思想闘争の要素も組み込まれ、笠井先生の代表作「矢吹駆シリーズ」を彷彿とさせる箇所もあります。笠井潔ミステリの集大成と言ってもよいかもしれません。1960年代から現代に至る日本社会の変遷を重層的に描き出すキリリとした筆致、濃密な物語に陶然としてください。そしてラストのラストにさりげなく示される、せつない余韻が素晴らしい。読み終えた後も心にずっと刻まれます。巻末には批評家・杉田俊介さんによる特別解説を収録。「怪物的な書き手」笠井潔の全貌と足跡が一望できます。