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特別書き下ろし 論理爆弾 事件前夜 黒田邸にて『論理爆弾』有栖川有栖|講談社ノベルス
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特別書き下ろし 論理爆弾 事件前夜 黒田邸にて

 両手でティーカップを持ち、紅茶を飲む十七歳の少女を見つめながら、黒田伊都子(くろだいつこ)はいたたまれない気持ちになった。
──この子を恐ろしい目に遭わせたくない。
 しかし、少女──空閑純(そらしずじゅん)は危険を厭わず、明日になったら旅立つつもりでいる。今日、大阪から福岡にやってきたばかりだというのに、さらに遠くへ、山奥にある秘密めいた村へと。
 母親の行方を追うためとはいえ、大した度胸だ。何が待ちかまえているかわからないので、そんな蛮勇を発揮できるのかもしれない。
「街はどうでしたか?」
 スプーンでカップをゆっくりと掻き回しながら、伊都子は尋ねる。夕食後に深刻な話が続いていたので、話題を転じたのだ。
「天神はとてもにぎやかで、大阪とあまり変わりませんでした。素敵なお店も見つけましたよ。長袖のTシャツのいいのがあったので買ってしまいました」
 博多がどんな街か歩いてみたい、と言っていたが、楽しめたようだ。遊びにきただけならよかったのに。
 あるいは、自分の絵のモデルにきたのならば、純も伊都子も安らかで充実した時間が過ごせたはずだ。愛らしい白桃のような顔が、暗い部屋の中でぽっと浮かび上がったところを描いてみたい。純はモデルとして申し分なく、画家としての腕がうずいた。
──大きなものとの戦いが、この子に輝きを与えている。
 伊都子はそう見た。子供の頃から、こんなふうに涼しげな目と引き締まった口元をしていたのかもしれない。しかし、ほんの半年ばかり前までは、ありふれた少女の一人だったのではないか。今の純には、過剰なほどに凜としたものが加わっている。そして、ふとした弾みで表情に翳(かげ)が差し、痛々しいと同時に美しい。世間の多くの人間にはわからないほど微妙なものではあるが、人間の外見から内面を見通せる画家の目には明らかだ。
──この半年で、理不尽なことにどれだけ怒って、どれだけ泣いたのかしら。
 伊都子は裕福な家庭に生まれ、絵ばかり描いて育ち、派手好きで変わり者のアーチストであることを誇った。結婚相手に選んだ男には、地位と資産があった。寡婦(かふ)となってからも夫が残してくれた立派な家で、ゆとりのある暮らしを送っている。
「失礼だけれど、お金の心配はないんですか?」
 訊いてみると、純は屈託なく答える。
「大丈夫です。貯金通帳を持ち歩いていますから」
「そうではなくて、ふだんの生活費ですよ。お父さんが逮捕されてしまって、お母さんは行方知れずで、あなたは一人で暮らしているのでしょう?」
「アルバイトで稼いでいます。父が作ってくれていた貯金もありますから困っていません」
 その貯金は、おそらく大学進学や結婚に備えたものだろう。生活費の足しにする以外のことで切り崩さないほうがよいのだが、純は母親捜しと探偵になるための資金にしている。そんなことをしたら、たちまち底を突いてしまいそうだ。
「ちゃんと新しい服も買っています」
 確かに、純が着ているニットのチュニックは新しそうで、よく似合っていた。ミントグリーンはこの春の流行色だ。危険な旅に出るにあたって気合いを入れようとしたのかもしれない。
「大切な貯金ですから、どうか大事にね。お金は羽が生えていて、すぐに飛んで行ってしまいます。かといって節約ばかりではさびしい。年頃の女の子らしいおしゃれも楽しんでほしいと……それ、中東風のデザインで洒落ていますね」
 純は、胸元のペンダントに触れた。
「これですか? 真行寺(しんぎょうじ)さんにいただいたんです。気に入っています」
「そう、晴香(はるか)ちゃんから」
 真行寺晴香は、伊都子が神戸の美大に講師として通っていたときの教え子だ。画家になる夢に見切りをつけ、画廊に勤めていると聞いていたのだが、あるとき意外なことを打ち明けられた。

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