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島田荘司さん 特別寄稿 『海と人と、星のロマン』|講談社ノベルス
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島田荘司さん 特別寄稿 『海と人と、星のロマン』

日本の命運を背負った、この街の藩主

 時代が下った江戸幕末、四隻の黒船を率いてペリーの米艦隊が浦賀沖に現れた時、老中首座としてこの難局に対処した人物が福山藩主、阿部正弘でした。時に彼は、弱冠35歳です。

 時は嘉永六年、1853年。中国に介入したイギリスが起こしたいわゆるアヘン戦争の1840年から、13年という年月が経過して、幕府中枢にすわっていた彼は、この戦争の経緯を正確に掴んでいました。

 本格ミステリーのジャンルに関係する情報を、ここで参考までに書き添えれば、この時代、ミステリー小説はすでに世に現れています。「モルグ街の殺人事件」は、アヘン戦争の翌年、1841年にアメリカ東海岸の都市を転々としながら、エドガー・アラン・ポーによって書かれています。

 偶然にもこの年は、土佐の漁師だった中浜万次郎が足摺岬沖で遭難、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に鳥島で救助され、船長とともにアメリカに向かった年にあたります。

 最初のシャーロック・ホームズ物語、『緋色の研究』は、それから四十数年後の1887年、コナン・ドイルによってイギリス、ポーツマス市のサウスシーで書かれますが、この時代に至ると、世界地図上に独立国家は欧州の先進十ヵ国程度しかなく、アジア・アフリカはすべてと言ってよいくらいに白人諸国家の植民地となってしまいます。かろうじて独立を保っていた国は、エチオピア、タイ、そして日本の三ヵ国のみでした。

 こうした歴史は今日忘れられがちですが、35歳の阿部が相対した国難は、その後の歴史を知るわれわれが想像するよりも遥かに過酷なものであり、絶望的なものでもありました。

 嘉永六年の六月に江戸の鼻先に現れたペリーは、開国の返答を訊きに来年戻ると言いおいて、国書を置いて帰っていきます。そこで阿部は、この直後からあわただしい動きを開始します。故郷福山藩に対して、世襲や身分制を超越し、実力主義をうたった藩校「誠之館」の新設を指示し、米国帰りの土佐の一漁師、ジョン万次郎を江戸に呼んで本所に屋敷を与え、数年間彼が暮らしたアメリカ国の状況をつぶさに語らせて、情報の収集を行います。

 全国の諸藩には、国の将来への意見具申を求め、江戸詰めの福山藩士、425名には、日米が戦端を開けば先陣を勤める旨を伝達し、出陣の陣形を決めます。全国諸藩にも非常事態の宣言をして、戦闘開始後は指揮下に入るようにと通達を出します。

 今日われわれが考えるような、すんなりした開国と、続く各種条約の締結といった平和な流れは、阿部の脳裏にはありませんでした。国内にアヘンを入れるように強要される事態を考え、その際には戦争をする覚悟でいました。そしていざ開戦となれば、勝てる見込みは乏しく、自身の命は失われるものと覚悟も決めていました。

 彼の悲劇は、正確な海外情報を知る人材が、全国諸藩にはむろんのこと、江戸城内にも見あたらなかったことです。彼我の実力差を正確に心得る人材は、側近はじめ周囲にはなく、彼らはみな、切腹を恐れて祖法鎖国の遵守、通例通り長崎に廻らせて時を稼ぎ、開国要求の忘却を祈る、そうしたお題目が戻るばかりで、では諸藩はといえば、外様を中心に判で押したような攘夷主張で、惨憺たるアジアの実情を鑑みれば、そのような理想は実行不能であることはあきらかでした。

 阿部の孤軍奮闘は続き、大船の禁という祖法を破ってオランダからの蒸気船購入を即刻決め、高身分の側近には頼らず、低身分の旗本から、勝海舟や岩瀬忠震(ただなり)、高島秋帆、榎本武揚などの優秀な人材を次々に引き上げて、これに平民のジョン万次郎を加えた実力派の混成チームで、この国難を乗りきろうと考えます。

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