島田荘司さん 特別寄稿 『海と人と、星のロマン』|講談社ノベルス
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島田荘司さん 特別寄稿 『海と人と、星のロマン』

瀬戸の内海

 瀬戸内海は、世界でもまれな海です。四角いプールにも似た内海で、大型の陸地に囲まれているから、水面は常に穏やかで、波は静かです。だから東海道を江戸からくだってきた旅人は、さらに九州へ向かおうとするなら、たいてい海路を採りました。このようにこの海は、遥かな古代から、東西交通の大通りでもあったのです。

 しかしこの海は、三方向に海水の出入り口があり、6時間ごとにここから海水が流入し、流出しています。海上には大小無数の島々が浮かぶので、島々の隙間には狭い場所、広い場所が生じて、潮が動く時、ところによっては急流が渦を巻いて、難所を出現させます。しかも難所は、時間によって勢いを変え、ところを移します。

 小舟を操って瀬戸内海を往き来した時代、これら難所の詳細に精通するには、長い経験が必要でした。こうした知識は、海戦時には何よりも重要で、潮流という大敵の前では、歴戦の陸の猛者も、大軍勢も、無力だったからです。源平壇ノ浦の合戦でも、こうした潮流の変化が勝敗を決しました。

大阪から九州に向かうには、流入時の潮に乗ります。しかし海水が入りきれば、潮は内海の中央で止まります。そこで旅人は陸に上がり、流出が始まる6時間後まで、「潮待ち」をしました。流出が始まれば船を出し、潮に乗っていれば、自然に九州に着いてしまうのです。このように瀬戸内海は、天然のベルトコンべアが完備した、非常に便利な海でもありました。

この潮待ちの港が、福山市の鞆です。古代から江戸時代まで、中国路では旅人は、例外なく海上のこのコースを通りましたから、鞆は東西交通の変わらぬ要衝であり続け、あらゆる文化、あらゆる宗教、芸術も科学も戦争もこの道を通り、多く東方の都に向けて伝播していきました。

神功皇后、源義経、足利尊氏、最澄、空海、そして朝鮮通信使も、オランダ商館江戸参府の一行も、さらには蒸気船の時代になってのちの坂本龍馬までもが鞆にあがり、歴史上の綺羅星たちは、海流の前では身分の差なく、平等に六時間という潮待ちの時をすごしました。

刻々変わる複雑な海流を熟知し、活用して、この海の覇者となった軍勢があります。村上水軍です。先進の軍事技術を持つこの海軍は、海賊として名を馳せ、戦国の世には毛利元就の軍勢について、石山本願寺を攻める戦国の雄、織田信長の軍を散々に打ち破ります。

そこで織田は九鬼嘉隆に命じて鉄甲船を造らせ、村上の軍に報復しますが、その後この無敵の鉄甲船の消息は、何故かかき消されるように、歴史の表舞台から消えてしまいます。村上に沈められたとも伝えられますが、詳細は解りません。

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